マヤ族たちのことを、心臓を食い尽くす野蛮人だと思っている人もいるようですが、実際は世界でも最も進んだ文明を持っていた部族の一つです。彼らは、先進的な暦システムに加え、道路や60,000棟に届く用水路システムを作り上げました。
4000年の歴史の中で、マヤ族は、芸術、医療、ピラミッド、そして球技などを生み出します。スペインの侵攻により、多くのマヤ文明の工芸品が破壊されたものの、学者たちによって、2019年の現在でも新しい発見が日々なされています。それでは、歴史家や考古学者が発見した、マヤ族の生活や信仰物、書き物などを見ていきましょう。きっとあなたも真実を知ったら、驚くはずです。
2012年に地球が滅亡するなどとは言っていないマヤ族
マヤ族のものであるとされる有名な仮説は、2000年代に湧き上がっています。それは、彼らの創った暦が2012年の12月21日で終わっており、これは世界の終わりを意味する、というものです。しかし、実際は一体何が起こったでしょうか?様々な仮説がある中で、「マヤ族は世界の終わりなど予言していなかった」という見解を歴史家達は見せています。
マヤ族の暦は、8,000年ごとまたは2,880,000日ごとに再循環します。暦を再スタートさせることが運命の日を意味するとは、マヤ族は一言も言ってはいません。 実は、この仮説は『アルマゲドン』に影響された欧米の人達が、勝手に作り出した仮説なのです。また、問題の暦よりさらに正確な暦がマヤ族には2つ存在します。
道路を舗装したマヤ族
2018年9月、考古学者はLIDAR(光検出と測距)を利用して、グアテマラのジャングルを探索。そこでは、60,000以上の建造物をつなぐ、数々の道路が発見されました。現在の研究では700~1,100万人のマヤ族がいたとされていますが、考古学者の間では、その人口が2,000万人近かったとも信じられています。
歴史家たちは、マヤ族たちが作物を大きな街へ運ぶのに、これらの道路を使用していたと推測しています。LIDARでは、探検した2,072平方キロメートルのジャングルの中に、7階建てのピラミッドがあったことも明らかになっています。
スペインの侵攻の前に衰退していたマヤ社会
西暦700年から西暦800年ごろ、マヤ族は南の街を一つ一つ去り始めます。 なぜこのようなことが起こったのかについては、歴史家達がいくつかの仮説を提唱しています。その一つは、都市国家の中で社会的な騒動が勃発して、それによって文明が崩壊したというものです。
マヤ族の高い壁を見てみると、長きにわたる戦争を戦い抜いたことが見て取れます。しかし、戦争中に貿易が衰退し、それによって生きる神とされるマヤ族のリーダーたちの権力が弱まったのではないか、と議論する学者もいます。この段階的な騒動という説は、なぜマヤ帝国が徐々に衰退していったのかを説明していると言えます。
内斜視であることが魅力的
他の古代文明とは異なり、見た目や美しさについては、あまり関心がなかったマヤ族。見た目に関して言えば、現在の人達とさほど変わらない風貌だったと考古学者は信じています。しかし、彼らにはユニークな美のトレンドがあったようです。
マヤ族では、とがった歯、平らなおでこが、魅力的とされています。そのため、母親たちは子どもたちのおでこに板を押し付けて、赤ちゃんの目の前に物をぶら下げて、このような見た目を作り出そうとしました。上流階級のマヤ族のほとんどは、これらの「治療」を受けていたそうです。
球技を楽しんだマヤ族
考古学者たちは、コパンにて、紀元前800年にさかのぼるマヤ族の球戯場を発見しました。メソアメリカ人たちは、ポク・ア・トックと呼ばれるスポーツを楽しんでいたとされています。このスポーツでは、足や手を使わずに、プレーヤーがゴム製のボールをリングに跳ねさせます。ティカルの球技場には、トーナメントを開催できるような3つのコートがあります。
ポク・ア・トックは、宗教的な意味合いも持っています。それは、敗者は神にささげられるためです。競技場は北から南に向かっており、つまり、天界と下界を表わしています。
ジャングルを農場に変えたマヤ族
ジャングルが異常に成長したため、考古学者たちはマヤ族の工芸品を掘り出すのに長い間苦労していました。元々、熱帯湿地の中で、マヤ族は農業を行うことが出来なかったと考えられていましたが、考古学者たちの見解は間違っていたのです。近年、150平方マイルに及ぶ人の手が加わった地形と、その3倍の広さの農業地帯が研究の中で明らかになりました。
研究者たちは、現在湿地の場所が、過去に農業のために耕作されたという推測をしています。マヤ族は、パイナップル、カカオ、パパイヤ、アボカド、トウモロコシ、マメなどを育てていました。さらに、医療、お香、オイル、スキンケア製品のためにも、植物を利用していたようです。
自分たちの仲間を生贄にはしないマヤ族
生贄は、神に捧げものをする最も名誉ある儀式とされていました。マヤ族は、自分達の神にとって、血が最高の栄養源であると考えていました。多くの場合、彼らは位の高い戦争捕虜を生贄にしていました。儀式の規定によっては、自分達の仲間を生贄にすることもあったようです。
また、マヤ族は、敵の王を生贄として捧げます。彼らは、斬首され殺されてしまいました。他の方法は、矢で貫いたり、伝説としては有名な、心臓摘出などがあります。また、マヤ族は儀式的として意味のある模様を、生贄の体に描いていました。
辛い旅から救出された生贄
生贄にされた人は、あの世に行く必要はありません。つまりそれは、苦しい冥界への旅をしなくて済むということです。冥界の神が人々を苦しめることがないギリシャ神話とは異なり、マヤ族の冥界のシバルバーでは、魂を恐怖に貶め入れ、異なる方向へ導びきます。王ですら、死後はシバルバーの元へ向かいます。
地球に辿りつくためには、シバルバーから9つの階を登り、天国にたどり着くには、さらにそこから23つの階を登らなくてはいけない、と信じていたマヤ族。この旅から免除される人は他に、お産時に亡くなった子ども、自殺者、戦いで亡くなった人などです。
人間と同じように生き死ぬマヤの神
マヤ族は、165の神をあがめていました。どの神も、人間のように、成長し死に直面します。植物を植え、収穫し、ビジネスを行い、戦争で戦い、同盟を組み、占いを行うなど、多くの人間のような活動を行います。
また、マヤ族の神は、形を変えることが出来ます。それは、性別や年齢、品行を変えることが可能であったということです。神は、雷、動物、書き物、球技など、人間生活のすべての側面を監視することが出来ました。彼らの神々は複雑であるため、マヤの神殿におけるすべての神々を定義し、名前を付けることは、学者たちにもまだ出来ていません。
巨大なインフラを立てたマヤ族
マヤ帝国はかなりの国民を抱えていました。そのため、文明を栄えさせ続ける為に、かなり巨大なインフラを建設しました。例えば、何百マイルに及ぶ水管理システム。マヤ族は、地下水が溜まる天然の井戸であるセノーテに頼っていました。 現在のところ、考古学者は2,200つのセノーテを発見しています。
マヤの都市国家は、かなり慎重に計画されており、そこには大抵規模の大きい広場が含まれています。彼らは、南極軸に沿って建物を手がけていました。これによって、容易に太陽や空のサイクルを観察することが出来ました。また、土地の位置ことも考慮しており、重要な建物は、より高い位置に建てられました。
2つの異なるピラミッドを建設
マヤ族は、2つのタイプのピラミッドを建設しており、このどちらにも、異なる宗教的理由がありました。1つ目のタイプは、人々が登れるようにデザインされています。国民はこれらのピラミッドに登り、生贄の儀式を行います。もう一つのタイプのピラミッドは、登ったり触れたりしてはいけません。このタイプは、神の為の神聖な建物として設置されました。
神聖なピラミッドには、祭祀以外の人が入れないように、偽のドアや急な階段が設置されています。ピラミッドの階段や建築は、季節や星の変化を反映しています。例えば、ククルカン神殿は、ククルカン神のシンボルであるヘビの形の影を作るために、春分の光を反射させます。
古い建物の上に新たな建物を積み上げる
マヤ族は、古い建物の上に新たな建物を建設しました。それは、航空写真によって、2,500年前に建設されたとされる長い建物と、比較的同じような場所に、1,500年前に建てられたとされる別の建物の存在が明らかになりました。年代が正しいとすれば、後期マヤ時代の建物は、古いものの上に建設されてということになります。
新たに改装された建物には、ピラミッドなどがあります。とくに有名なのが、西暦734年に建てられたとされる12メートルのティカル寺院です。ユニークな屋根のデザインと、平らな石が積み上げられている屋根ふきの宮殿などが特徴的です。
洞窟で行われる宗教的儀式
2019年、1,000年以上の間手つかずとなっていたメキシコのユカタン半島に、マヤ族の儀式用の洞窟を発見した考古学者たち。さらに、ここでは、無傷の155個の工芸品が発見されています。カリフォルニア大学のマヤ文明専門歴史家であるホリー・モイズによれば、マヤ族は洞窟を冥界への入り口と考えていました。「ここはマヤ族にとって、最も神聖な空間を象徴しています。」
マヤ族は、雨の神チャークを、洞窟で崇めます。お香や食べ物、土の工芸品をこの神に捧げていました。研究者たちは、雨が降るようお願いするために、これらのお供え品を置いたとしています。
維持するには大きくなりすぎた?
歴史家の中には、類を見ない急激な成長が、マヤ族を全滅させてしまった理由であるという説を立てている人達がいます。マヤ族は、賢く農業を機能させて、土地を維持するために輪作を行っていたものの、その人口が大きく成長しすぎたことが、全国民を養うことが出来なくなった理由であると、学者たちは考えています。
増えすぎたマヤ族の人口によって、森を侵食し、農地の資源を枯渇させてしまったようなのです。別の歴史家たちによれば、大きな干ばつが起こったとしたら、彼らの巨大な灌漑システムを持ってしても、十分な水を分配することが出来なかったであろうとしています。
全てを書き残していたマヤ族
マヤ族は、書記言語を利用し始めた際の、最初の文明のひとつです。マヤグリフ(ヒエログリフに類似したもの)を、岩、漆喰、木、陶器、服に彫り出しました。これらを翻訳することは、最も難解なことの一つと言ってよいでしょう。文字は、考え、行動、音節を表わしています。20世紀初期、歴史家はついにこの文字の解読に成功しました。
残念ながらスペイン人たちが、マヤの書き物のほとんどを破壊してしまったものの、祭壇の石のモニュメントから、彼らの文学を見て取ることが出来ます。文字を書くことが出来る男女の書記官は、すべての書き物に自身のサインを残しています。その内容は、個人的な所有物、文化、宗教などです。
かなり進歩しているマヤ族の医療
医療的な行為は、マヤ族が自分たちで全てを行いました。植物や木、自分達の髪のケアもです。傷をぬうのも、人毛を使用して、防腐剤がなくとも効果的に傷口を閉じていました。さらに、歯の治療も行っています。人工歯は、ヒスイ、ターコイズ、黄鉄鉱などから作りました。
マヤ族は罰として病気になると信じていたため、医療に携わる人たちは、患者にその症状と罪をたずねます。これらの「医者」は、広範囲にわたる薬草学の知識を持っており、現代の医者とほぼ同じように、お産をも行っていたとされています。治療として、今でいうサウナのような場所に患者を送ることもありました。
鉄を武器として使用していない
マヤ族は、鉄の存在は知っていました。しかし、どうしてか、マヤ族がこれらを武器として利用することはなかったのです。マヤ族は、主に黒曜石を利用。これを研いでとがらせ、その鋭さは、スペイン軍の鉄を貫くほどでした。マヤ族が作った投げ矢の一部は、40,000年前までに遡っているものもあります。
マヤ族は、敵に投げ矢として飛ばす、研いだ枝のアトラトルと呼ばれるものも使用していました。アトラトルの先に付いた黒曜石は割れてしまうことがあるため、最終的に、アトラトルから現在の形の矢へと移行しています。
70の異なる言語に発展したマヤ族の言語
歴史家や考古学者たちの発見によれば、初期のマヤ族はたった1つの言語を利用していました。しかし、すぐにマヤ族は領土を拡大していき、国民の多様性が広がる中で、言語も拡大していったようです。
マヤ族の文化は、今でも生き続けており、現在のメキシコや中央アメリカに住む、およそ500万人ほどの人が、70の異なるマヤ語を話しています。それらの多くは、スペイン語とのバイリンガルです。
生あるいは死を意味する暦
マヤ族の神話では、神が初めて人間を見放したのは、人間が神聖な暦を参照しなかったためだと信じられています。そのことを考えると、暦の制作にかなりの心血を注いでいたとしても、おかしくはないですよね。マヤ族は、2つの暦を作り出しました。季節と収穫の時期を追った世俗的な暦と、占星術と神の休日を組み込んだ神聖な暦です。
神聖な暦は、未来を予言しており、少なくとも、マヤ族はそのように信じていました。これらの暦は、書記官や神官によって解読され、彼らはその内容を王に伝え、王から民へと伝えました。
70カ国語以上を話すマヤ族
かなり多くの人達を取り込んでいたため、マヤ帝国の人達は、徐々に別々の言語へと発展していくことになり、それぞれ異なる方言を話すようになりました。現在、グアテマラでは21つのマヤ族の言葉が認知されており、メキシコではさらに8つの言語が認知されています。歴史家によれば、今も使われているマヤ族の言語は70以上も存在します。
多くの現代のマヤ族の言語は、プロトマヤ語から来ています。これは、マヤの歴史で言えば比較的若い方言で、5,000年ほど前にさかのぼるとされています。この言語は、キチェ語、ユカテコ語、カンホバル・チュフ語、マム語、チョル・ツェルタル語、ワステコ語の6つに枝分かれしています。
現在でも存在するマヤ族
今日、600万人以上の人が、マヤ語のどれかを第一言語として使用しています。マヤ族の子孫たちは、彼らの伝統を何百年にもわたって守ってきました。しかし、このエリアでの森林伐採によって、マヤ族の農業的、宗教的な資源が脅かされています。
マヤ族の子孫たちは、南メキシコや北部中央アメリカに住んでおり、ユカテコ、ツェルタル、ツォツィルなどの様々な部族に分かれています。彼らは、ウラマーと呼ばれるポク・ア・トックの一種に興じることがありますが、敗者が生贄になるということは、もうありません。
大のチョコ好き
南アメリカと中央アメリカの熱帯雨林に自然に生えてくるカカオ。マヤ族がこれを発見し、利用するようになったことも、驚きではありませんよね。考古学の発見により、マヤ族は2,600年もの間、カカオを加工して使用していたことがわかりました。紀元前600年のものとされるマヤのセラミックスの壺に、カカオの跡が残っていたのです。
現在のようにチョコレートとしてではなく、水、はちみつ、チリペッパー、コーンミールと他の材料を混ぜて、お祝いや儀式の際に飲む泡立った飲み物として口にしていたそうです。
グリルの初期版を発明
マヤ族は、古代式のグリルを持っていました。グリルとは、私たちが使っているようなバーベキューをするグリルではありません! 現在のラッパーが、歯に施すゴールドやダイアモンドの装飾をグリルと呼びます。マヤ族も似たようなこの装飾を行っていました。
ゴールドとダイアモンドの代わりに、マヤ族たちはヒスイ、黄鉄鉱、赤鉄鉱、トルコ石を直接歯にはめ込んでいました。歯に穴をあけて、これらの宝石でその穴を埋めます。男性だけでなく、女性もこれを行っていました。
浣腸で神と話せる?
マヤ族は、スピリチュアルな文明であるため、マヤ族が精霊や神とできるだけ話をしようとしたということは決して驚くことではありません。未来を予測したり、理解できないことを受け入れるための助けを得るため、神と話したいという時に、マヤ族は酩酊します。
発酵したサイケデリック効果のある、はちみつで作られた「バルチェ」と呼ばれるアルコール性の飲み物を作ります。嘔吐を避けるために、彼らはこの飲み物を肛門から注入しました。マヤ族の陶器に描かれた絵を見ると、儀式的な浣腸が頻繁に行われていたことがわかります。
50種類以上あるキノコ
歴史家たちは、マヤ族がサイケデリック効果のあるキノコを大量に使用していたとされています。少なくとも54種類の幻覚効果のあるキノコが使用されていました。研究によって、それらの多くの種類は、現在のメキシコでも目にすることが出来るということがわかっています。
これらのキノコは、3,000年前以上前の宗教的な儀式で使用されていたものです。ジェネラル・ヒストリー・オブ・ザ・シングス・オブ・ニュー・スペインによれば、「キノコを口にしたものは、幻を見て、心臓の鼓動を感じます。彼らが見る幻は、恐ろしいことも、おもしろいこともあります」。
カエルの皮を収集
マヤ族が使用していた天然の薬の中でも、カエルから得ていたものが、最も変わった薬の一つであると言えるでしょう。マヤ族が求めていたのはヒキガエル属。これらの唾液腺からは蟾酥と呼ばれる毒が分泌され、これにはサイケデリック効果があります。
蟾酥使用方法として、マヤ族はこれらのカエルの乾いた皮とたばこを、アルコール性の飲み物に加えます。効能力のあるこの飲み物は、マヤのキチェ族が良く使用していました。また、カエルの皮をバルチェに加えて飲んでいたようです。
重要な色である青
マヤブルーとは、古代マヤ族の工芸品に頻繁に使用されていた鮮やかなスカイカラーです。実際には、芸術作品に色を加える以上の重要な役割を果たしていたこの色。青は、乾燥する季節と共にやってくる雲のない空を表わしており、マヤ族は青という色を、雨の神であるチャークの色と考えていました。
マヤ族が雨を願う際は、人間の生贄を選んで、その人をマヤブルーに染め、祭壇に投げ入れました。ここで、まだ動いている心臓を目の前で取り出されたのです。
世界で最も初期のサウナ
ローマ文明の有名な浴場よりずっと前の時代に、すでに浴場を発明していたマヤ族。たくさん汗をかくことには、浄化効果とたくさんの健康的メリットががあると、マヤ族は既に理解していたのです。
汗風呂として建設した初期の浴場の一つは、ベリーズのクエロで見つかりました。考古学者たちは、熱帯気候でクールダウンする方法として、マヤ族が汗をかくのに使っていたとされる、3,000年前の建物をこの場所で発見したのです。この汗風呂は、大抵岩や日干しれんがでできており、グアテマラやエルサルバドルなどで、今も見ることが出来ます。
オリジナルの球技
チチェン・イッツァなどのマヤの街へ行ったことのある方であれば、たくさんの球戯場をご覧になったことかと思います。 マヤ族は、これらの球戯場に集まり、「ピッツ」と呼ばれるスポーツを楽しみました。これは、サッカーとバスケットボールを組み合わせたような競技です。
プレーヤーたちは、サッカーボールほどの重いゴム製のボールを投げ合い、かなり高い位置にあるフープへと投げ入れます。プレーヤーたちは手を使うことが許されておらず、肋骨、ひざ、腕を守るために、装備をつけていました。
かなり真剣な宗教的試合の「ピッツ」
バスケットボールやサッカーとは異なり、マヤ族のピッツの試合はもっと真剣です。これはただの試合ではありません。ピッツは、『ポポル・ヴフ』で語られているマヤ建国を思い起こさせる重要な儀式なのです。
古代マヤの歴史によれば、2人の神の兄弟が、ピッツの試合で冥界の超自然的支配者を破ったことで、地球上での生命を迎えることが可能になりました。この試合を実行することは、神への献身を証明する機会として、試合を捉えていたマヤ族にとって、生き残りを意味します。ピッツで敵に負けると、その人は生贄として捧げられる可能性があります。
七面鳥を家畜化したマヤ族
アメリカでは七面鳥を感謝祭のシンボルとして捉えていますが、巡礼者がプリマス・ロックに到達するずっと前から、マヤ族はこの大きな鳥たちを利用していました。ほとんどの文明がそうしたように、マヤ族も七面鳥を口にしていましたが、マヤ族は別の意味でもこれらの鳥を有益であると考えていたのです。
特に、マヤ族たちは七面鳥を骨と羽に分けて、道具、うちわ、楽器などに利用していました。七面鳥の骨は、野生の七面鳥が生息している場所から遠く離れた、グアテマラの遺跡で発見されています。つまり、マヤ族は自分たちで利用するために、七面鳥を飼いならしていたということです。
暦に沿って子どもたちを命名
最近では、アップルやノースのように変わった名前を付ける傾向にありますが、マヤ族にはもっとずっと単純な赤ちゃんの命名方法がありました。どんなモノが赤ちゃんにピッタリな名前だろう、などと思いを巡らすことなく、マヤ族は子供の誕生時に、名前を決めるために3つある暦の1つを使用しました。
マヤ族の暦の1日1日には、男の子や女の子の名前がついています。親は、子どもの生まれた日に応じて、この暦の名前を子どもに付けるのです。とても単純で、つけた名前を後悔するようなことはきっとなかったはずです。
かなりの痛みを伴う入れ墨のプロセス
古代マヤ族の身体改造技術の中で、最も不思議に思わないのは、入れ墨なのではないでしょうか。入れ墨は、マヤ族の中で頻繁に行われていました。男性は、結婚した際に初めての入れ墨を入れます。女性が入れ墨を入れる際は、上半身に繊細な入れ墨を入れていました。
当時の入れ墨は、現在のものよりだいぶ痛みを伴います。刺青師は、まずデザインを体に書き入れて、それからそのデザインを皮膚に切り込んでいきます。この痛みを伴うプロセスによって、病気や感染症を引き起こすことがありました。そのため、入れ墨をしたマヤ族はその勇敢さで讃えられました。
入れ墨は神を讃えるための方法
入れ墨を入れることは、おしゃれ以上の意味があったということは、皆さんもご存知でしょう。まず、マヤ族が入れ墨を入れている場合は、高い社会的地位にいて、特別なスキルや宗教的な力があることを意味します。このプロセスは痛みを伴うため、入れ墨を入れる際の苦しみと血は、神へ捧げる犠牲であるとも考えられていました。
マヤ族は、自分達の人生に力を与える特定のシンボルを選んでいました。あるいは、神を讃える意味で、特定の神話のシーンを入れ墨として入れています。
マヤ族のものの見方
マヤ族は、世界が紀元前3,114年8月11日に作られたと信じていました。おもしろいことに、マヤ族は、キリスト教の聖書に書かれているのと同じように世界が作られたと考えています。
マヤ族の神話によれば、まず最初に動物が誕生しました。次に、土と木が作られます。最後に、地球と天国を作り出した職人的な神の手によって、トウモロコシから人が作られます。
暴力的だったマヤ族
マヤ族は、天文学、スピリチュアリティー、工芸品などで有名です。しかし、生贄などを行っていたことを考えると、マヤ族は暴力的な部分も持っていたとも考えられます。
暴力と戦争というと、彼らの北側の隣人であるアステカが良く連想されますが、実はマヤ族も戦争を行っていました。戦争、大量虐殺、生贄などのシーンは、岩や建物に刻まれています。 戦争が盛んになったことが、文明が衰退した理由であると歴史家は考えています。
読書家だったマヤ族
自分達の文字を持っていた文明であれば、古代マヤ族が本を作っていたことは、想像しやすいでしょう。マヤ文明は、文字や1つの音節を表わす象形文字を持っていました。これらすべては、「コーディス」と呼ばれる本にまとめられ、マヤ族の文学をなしていました。
当然のごとく、すべてのマヤ族が文字を読むことが出来たわけではなく、読書は祭司クラスだけのものでした。一時、マヤ族は何千冊もの本を所有していましたが、スペイン人に侵攻された際に、祭司がほとんど燃やしてしまいました。現在、4つのマヤ族のコーディスのみが生き残っています。
星を記録していた理由
マヤ族は、自分達を天文学者であると考えていましたが、星の記録には、かなり宗教的な理由が関係していました。星だけでなく、月、太陽、そして目に見える惑星の記録まで残していました。
日食、至点、宗教的な儀式を行う暦の天文的な出来事も記録していたマヤ族。これらの惑星間の動きは、天国、地球、シバルバーと呼ばれる冥界を行き来している、神々であると信じられていたのです。
様々なもので貿易
マヤ族があちらこちらに移動するために、複雑な道を作っていたことは、もうご存知かと思います。これによって、広範囲にわたる貿易を行うことが出来ていました。この時点で、既に何百万の人々を抱えていたため、中央アメリカのかなりの範囲に及んで貿易をしていたと考えられます。
日々の生活を送るために、食べ物、服、塩、道具、武器などを取引していました。しかし、ヒスイ、黒曜石、金など、栄光の証であるような品も求めていたようです。
マヤ族のロイヤルファミリー
どのマヤ族の都市国家にも、個々の支配者や王を持っていました。彼らは、アオウと呼ばれます。王は、太陽、月、神聖であると信じられていた惑星から降り立って来た、と考えられていました。
神聖な血を受け継いでいる王は、天国、冥界、地上をつなげる者として機能していました。天の言葉を理解するために、王は司祭を雇います。こうして、王から一般の人に、天の声を伝えました。また、王は、ピッツの試合で人々を率います。王が亡くなった際は、彼の息子がその地位を引き継ぎます。しかし、女王が存在したという証拠もある説には、残っているようです。