残念ながら現在でも、かなりの数のダイバーが海の底から難破船を見つけています。車やバス、そして飛行機の様な鉄の塊までもが海で見つかってしまいます。そして、その背景には、必ずとても面白い話があるのです。
戦争で撃ち落とされたものや、人口サンゴ礁を作るために沈められたものもあります。世界中に沈んだ車やボート、飛行機について見ていきましょう。
バハマに沈んだパブロ・エスコバの飛行機
パブロ・エスコバは、悪名高いコロンビアの麻薬王で、20世紀を通して麻薬を密売していました。そんな彼の密売に使用された飛行機の一機が、1970年代には、バハマのスタニエル・ケイ航空の近くにクラッシュしたのです。
パイロットは、滑走路の誘導ライトが暗かったことと、燃料が十分にあるかを危惧していましたが、やはり次の朝にノーマン・ケイを探索したダイバーが、麻薬を大量に積んだ飛行機が沈没しているのを見つけたのです。パイロットは、脱出して生き延びましたが、エスコバの密輸に使用された飛行機は、今もそこに沈んだままです。
ビンテージの地下鉄車両も海の中に
アメリカの東海岸に沿って、2500ものレッドバード地下鉄車両が、海の底に沈んでいます。これは、ニューヨークのメトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティー(MTA)のもので、2001年から2010年にかけて、MTAが、廃車となった車両を人口サンゴ礁を作るために再利用したものです。
こういった車両は、サウス・キャロライナ、メリーランド、デラウエア、ニュー・ジャージーの海岸沿いで見られます。これらの人口サンゴ礁により、海で生きる生物にとっては恰好の住処となるのです。また、ダイバーたちにとっても良いダイビングスポットとなっています。
氷の下に沈んだ"幽霊ヨット
南極のアーデリー・コーブを横切ったら、水の下で凍っているヨットを見るかもしれませんね。このヨットは、Mar Sem Fim とか"終わりのない海"などと、英語で呼ばれていて、ブラジルのジャーナリストと実業家のJoão Lara Mesquitaが所有しており、沈んでしまったときには、南極大陸のドキュメンタリーを撮影していました。
当時のクルーの話によると、ボートは、時速62マイルの速度で走ったため、転倒してしまったそうです。その4日後になって、生存者は、チリの海軍に助けられたそうですが、Mar Sem Fim は、見つかるまでの一年間、海の下30フィートのところで水面から見ることができたそうです。
どうして1957年に製造されたヴォルクスワーゲンバスが水の中に沈んでいるの
1973年に、1957年製造のヴォルクスワーゲン23ウインドーバスが湖に捨てられているのが発見されました。犯人はまだ見つかっておらず、こういった事件が度々起きていました。特に、ノルウェーの入り江にあるフィヨルドでは、車が捨てられることが多かったのです。わざわざ修理するより、新車を買った方が安上がりだったことが原因しているのでしょう。
36年間もの間、湖に沈んでいるヴォルクスワーゲンの周りで、たくさんのタイヤや車のパーツなどがダイバーたちによって見つかっています。2019年になってやっと、そのヴォルクスワーゲンが水の中から引き揚げられ、現在は、モートン・ラントによって修理されているそうです。
ペンシルベニア州にある湖に沈んでいるバスは、泳いで中に入れる
ペンシルベニア州のベスレヘムの近くにあるダッチ・スプリングは、ダイビングスポットとして人気の高い場所です。いろんな種類の魚がいるだけでなく、いろんな車やバスも見ることができます。ダッチ・スプリングは、1980年にダイビングスポットになるまでは、廃車の捨て置き場だったのです。
きっと修理するだけ無駄だったんでしょうね。20世紀のころは、公共の湖などは、現在と比べて、しっかり管理されていなかったのです。そのため、何十台もの車やバスが、たった深さ100フィートのところに捨てられていたそうです。水没した廃車の中も泳げたくらいですから。
この水没したスクールバス、思ったほど不気味じゃない
誰もが知っている通り、スクールバスは子供たちの送り迎えをするもので、海の底で見るものじゃないですよね。水の中にある老朽化したバスは、確かに不気味ですが、沈んだ時には、もちろん子供たちは乗っていなかったですよ。
このスクールバスは、トレーニングの一環として行われたもので、アラバマ州のボールドウィンの湖の底に沈んでいます。事故にあった時の安全対策として、バスの運転手や緊急対応者の間のテストでした。まあ見た目は不気味ですが、この水没したスクールバスは、人を助けたことがあるのです。
トヨタ車の墓場は40年以上になる
スーダンの近くにあるアフリカの紅海には、水没したトヨタの車の墓場があるのです。この廃車は、40年以上も水没したままで、1977年に、サウジアラビアの貨物船であるGrande Americaが、当時181台のトヨタ車を運んでいました。
その貨物船が、スーダン港の北50マイル離れたところにあるSha'b Suadi Reefのところに座礁してしまいましたが、現在は、ブルーベルトの難破船として知られ、ダイバーの中では人気が出て来ています。廃車の多くは、かなり腐敗していますが、まだエンジンもハンドルも、フェンダーも残っているものあるんです。魚たちは楽しく暮らしているみたいですね。
この1930年代の旅客機は、まだそのままの状態
海に墜落した飛行機の多くは、墜落の衝撃や悪天候、激しい荒波のせいで、すでに腐敗しています。でも、この第二次世界大戦時の飛行機は、まだ原型をとどめています。1930年代から1940年代での間に製造されたアメリカの旅客機で、ダグラスDC3と呼ばれ、現在でも、外側も内側もまだ綺麗に残っています。
この飛行機の正確な墜落時期はわかっていませんが、おそらく1930年代だと考えられています。トルコの海岸沖で発見され、軍需品の輸送に携わっていたようです。
イギリスの水没したツワーバス
ウエールズとイギリスの国境線にあるワイリバーの下は、Dayhouse QuarryとChepstow Quarryと呼ばれていて、そのエリアには、商業用のトラック、イギリスのダブルデッカーツワーバス、戦車、しかもヘリコプターのようなものが何十年もの間沈んでいます。
これらの車両は、ダイバーを養成する目的で沈められたものなんです。今でも、ダイバーたちが、車両の周りを泳いで、水中撮影を楽しんでいます。Dayhouse Quarryでは、とても素晴らしい写真がたくさん取れるので、すべてがお気に入りになるそうですよ。
2017年に、新しい軍事航空機が海に捨てられた
写真を見るとわかるように、この水没した飛行機は最近のものですね。この飛行機は、4エンジン搭載の輸送航空機で、Lockheed C-130ヘラクレスと呼ばれていました。大量の貨物や乗客の長距離輸送を目的としていましたが、医療目的でも使用されていました。
それなのにどうして水の中に沈んだのでしょうか?その理由は、2017年にヨルダンの空軍が、人口のサンゴ礁を作るために沈めたからです。アカバの海岸沖で、ヨルダンのダイバーも全長112フットで、翼長132フットのヘラクレスを見ることとなるでしょうね。
ミステリアスな水の中のビートル
この水没したヴォルクスワーゲン・ビートルについては、あまり良くわからないのですが、ポルトガルの海岸沖で見つかり、接合部位のあたりから朽ちていっています。この車、捨てる前にすでに、元オーナーによってエンジンが抜き取られていました。
1938年には、ヴォルクスワーゲンは、2000万台ものビートルを生産しており、25ホースパワーで、最高速度が、時速62マイルとなっています。1938年には、今日でも見られる"シン・ビートル"が発売されました。
これが、ひっくり返ってねじれた第二次世界大戦の飛行機
第二次世界大戦時、メッサーシュミットのBF109が、クレタ島の沖で墜落しました。この戦闘航空機は、ドイツのLuftwaffe fighter forceの原型でしたが、水面下78フィートのところに沈んだ時に、逆さまに墜落して歪んでしまったのです。
時間とともに、まっすぐと位置を変え、現在は、砂の上に背を下にして沈んでいます。メッサーシュミットのBF109はダイバーたちにも人気があり、80年間も水の底に佇んでいます。どうしてこの飛行機が墜落したのか、そして、そのパイロットがどうなったかも不明のままです。
ハワイの魚たちと墜落した第二次世界大戦の飛行機
F4U コルセアは、第二次世界大戦期に、アメリカ陸軍航空隊で空母搭載機として飛んでいました。現在でも、水没したコルセアが、ハワイのオワフ島で見つけることができますが、今は人口の砂礁となり現地の魚の恰好の餌場となっています。
1948年に飛行機は定期ミッション中でしたが、エンジントラブルに見舞われます。ところが、パイロットのスキルもあり、水面上に無事に胴体着陸することができたのです。パイロットも飛行機から無事脱出し、レスキューされました。コルセアは海の底に沈み、現在もそのままの状態にあります。
イギリス海軍戦車、SS Thistlegormも一緒に水没
このトラック、他の同じような車両と一緒に80年以上海の中を佇んでいます。このトラック、イギリス商船隊で輸送された1930年代の軍事トラックであり、この船が沈没したときに、すべて水の下に沈没したのです。
1940年に、ジョセフ・トンプソンとその息子で、SS Thistlegormを作り上げたのですが、この船は、軍事的な車を輸送する目的でデザインされたのですが、結局一年も続きませんでした。1941年の10月6日に、ドイツの爆撃機が、紅海にあるラスムハンマドの近くで沈没しましたが、今日でも、このエリアは、ヴィンテージの車を求めてダイバーがやってくるのです。
どうしてこのバイク水没したんでしょう
SS Thistlegormは、たくさんの軍事車両を輸送してきましたが、沈没した後初めて、ダイバーによって、貨物の中にバイクが紛れ込んでいたことが発見されました。このヴィンテージのバイクは、兵士か、軍の高官によって所有されていたらしいです。
このバイクは、バーミンガム・スモール・アームズ(BSA)に属するもので、この会社は、銃器、バス、自転車、そして車などの多くの軍事車両を生産してきました。1950年から1960年にかけて、バイクの世界では、一番大きな会社でした。でも、これは、1940年代にBSAに作られたものです。
呪われた日本の戦車の墓場
これは、日本の戦争技術の残骸というべきもので、第二次世界大戦中、ミクロネシア連邦にあったTruk Lagoonは、日本の海軍基地でした。一時期、そこは海軍の主要基地で、1万3700人もの兵士が滞在していました。1944年に、アメリカ海軍は、"ヘイルストーン作戦"という日本の基地を襲撃する作戦を仕掛けたのです。
それにより、多くの日本の軍事車両が海の底に沈んだのです。その後の80年間すっとそこに沈んだままでした。この戦車は、呪われた戦争車両の墓場のほんの一部なのです。
1980年に、これらのトラックは、沈みゆく船から零れ落ちた
これらのトラックは、1980年に難破した船の一部なのです。その年の6月に、スイスのフェリーMS Zenobiaは、処女航海をスタートさせたのですが、ウオーターパンプのソフトウエアの不具合により、Zenobiaはキプロスのラナルカ近くで沈没してしまいました。
この船とその貨物は、今も海面138フィート下に眠っています。船は、初めに大きく傾いたため、沈没する前に、荷物が海にこぼれ落ちてしまったのです。ものすごい数のトラックが重なって落ちたため、すべて横になった状態で海に沈んでいます。この光景は、目づらしく、また不気味でもあります。
最後のB24リベレーターは海の中
クロアチアのビズ島の近くの水面下128フィートのところに、アメリカ軍のB24リベレーターが沈んでいます。この重爆撃機は、第二次世界大戦中に何度も改良されました。1945年ごろ、この飛行機は、"タルサアメリカン"と呼ばれ、ガス欠で墜落しています。
飛行機のシリアルナンバー42-51430から、この飛行機が最後のB24であることがわかっています。1944年の7月31日に、ダグラス航空のタルサによって作られたものです。もし、最後のB24爆撃機を一目見たいなら、海の底100フィートにもぐってみてください。
この車を9千ドルで買った人がいる
この1959年産のシボレー・インパラは、この池に15年間も水没しています。ここがどこなのかよくわかっていませんが、オーナーは故意に、この車をこの池に水没させたんでしょう。人口サンゴ礁や、彫刻などのアート作品を飾るよりすっと安上がりですしね。
数年がたった時点で、これがうまくいかないことは明白ですよね。水没した車があまりにも浅すぎて、魚が生息しませんからね。それで、オーナーは、この車を9千ドルで売ってしまったんですね。新しいオーナーもリノベにも苦労するでしょう。
1970年産のマスタングも暗礁へと変わる
高級車が水没していることはあまりないですよね。でも、1970年にこのマスタングはそういう運命を辿ってしまったのです。他の"ヴィンテージ"や、“廃車“と同様に、暗礁として再利用されているわけです。
このマスタング、昔は派手な赤色だったんでしょうが、だんだん色がはげ落ちてきています。電灯やタイヤなどは、もともと取り除かれていて、リサイクルに回したんでしょう。いまや魚や海藻の新しい家に改装されていますね。
最初の海戦の残骸
2013年に、古代に起こった最初の海戦にまつわる残骸が発見されたと、考古学者によって発表されました。これは、エガディー諸島の戦いで、シチリア島の沿岸で起こったと信じられており、紀元前241年の最初のポエニ戦争での最後の衝突だったようです。2000年以上前の人工物が、海の底から多く発見されていて、その中には、武器、攻城槌、ヘルメット、鎧、それに船の一部などがありました。
この戦争の間に、50のカルタゴ人の船がローマ人によって沈没させられ、その結果、1万人以上の死者を出しました。歴史上初の海戦も血にまみれた戦争だったようですね。
Pavlopetriの沈んだ都市
ギリシャの南ラコニアの沿岸に、推定5千年前に栄えた都市が水没しているのです。名前は、Pavlopetriと呼ばれ、海に沈んだ都市の中では、世界で一番古いとみなされています。発掘されたものから、この都市は、道、寺、庭、貯蔵庫、家、整備された水道システムなど、とても良くデザインされていたようです。
2009年の報告書によると、この都市は、9エーカー以上に広がり、紀元前2800には人が生活していたであろう、と述べられています。この都市は、紀元前1000年までに、地震で沈んでいますが、土地を変え、かつて栄えていたころは、信じられないほど正確な3Dモデルを作っていたと考古学者は考えています。
ヘラクレイオンの失われたエジプトの都市
2000年に、フランスの水中考古学のフランク・ゴディオとEuropean Institute of Underwater Archaeologyのチームが、アレクサンドリアの近くのアブキール湾の中にある地中海の30フィートの底に1200年前に失われた都市の遺跡を発見しました。その都市は、ギリシャ人には、ヘラクレイオンとして、エジプト人には、トロニスとして知られ、地中海とナイル川の間の貿易の重要な港として栄えていたと推定しています。
16フィートの宗教的な石像から金貨やアテネの重りまで、発掘された産物が何百も出て来ています。この都市が沈んでしまった説として、地震などの天災や、海底を構成する粘土や土壌が、都市の重みに耐えられなかったなどが挙げられます。
世界における古代難破船の首都
2015年から、Fourni archipelagoにおいて22以上もの古代ギリシャの難破船が発見されています。現在、Fourni archipelagoは、比較的重要でもない島々からの小さなコレクション程度ですが、古代の時代には、海洋貿易のとても重要な場所の一つだったのです。難破船のうち12隻程度は、紀元前480年から紀元前700年まで、更に、16世紀の後半まで広がっていて、"世界における古代難破船の首都"と呼ばれるようになっています。
難破船からの集められた産物で、歴史家たちは、航海の進化や、何百年も前の船員たちの生活などを知ることができるのです。
ハネケ・ローム
2015年に、考古学ダイビングチームは、フィンランドの著名な難破船研究者であるラウノ・コイブサアリの援助もあって、ハネケ・ロームと呼ばれる15世紀のハンシアティックシップの残骸を発見したと報告しています。ハネケ・ロームは、200人の乗客を乗せてフィンランドの沿岸で沈没したとき、ドイツから出発した2隻のうちの1隻でした。
歴史的記録によると、当時、200もの織物、1200バレルのはちみつ、1万枚の金貨や宝石など、総額1億5千万ドルもの積み荷を運んでいました。難破船が引き上げられたとき、誰しもハネケ・ロームと金貨が回収できると信じていました。
アンティキティラ島の難破船
1900年に、アンティキティラ島の難破船が、クレタ島とペロポネソス半島の間にあるギリシャの小さな島であるアンティキティラ島の西沿岸の沖で、海綿ダイバーたちによって発見されました。その船は、紀元前60年に小アジアとローマを航行中に沈没したと考えられています。
その難破船には、貴重な宝石、銅の彫刻、陶器など数多くの工芸品があり、また、日食や太陽や他の惑星との位置を知ることのできるアンティキティラ・メカニズムとして知られる人工物も発見されました。その船の存在がわかって100年以上たった現代でも、未だに歴史的発見がなされている、と考古学者たちは言っています。
失われたムー大陸
1987年に、新嵩喜八郎によって、"ムーの失われた大陸"が発見されましたが、その発見の審議についてはまだ決着がついていません。ムーは、アトランティックのような陸であると思われており、ムーの人々が自然の大災害により、土地を奪われ、その土地も海の底へ沈んでしまったと信じられています。ムーの人々は、エジプトやメソアメリカと同じように発達した文明を持っていたと思われています。
新嵩は、水面下20フィートのところで、いろいろな遺跡を発見しました。海の神々を祭る闘技場は、250フィートのベースからなり、海の表面下100フィートの所に広がり、高さが80フィートになります。建物は、八重山諸島の中新世前期ごろのとても質のいい砂岩と泥岩からできていることが、調査団により発見されました。
古代戦場跡が沿岸近くに
2015年に、考古学者の国際チームが、その島がかつて、古代都市ケインがあった場所ではないかと考えています。それは、エーゲ海の近くに位置し、ペロポネソス戦争の終わり後の紀元前406年に、スパルタ軍とアテナイ軍の間で起こったアルギヌサイの戦いの場所でもあったようです。
アルギヌサイ諸島(現在のギャリップ諸島)は、トルコ沿岸のたった200-300ヤード離れた所にあり、その3番目の島が、古代都市ケインがあったと信じられています。しかも、その島は、大昔に陸橋があって、半島と繋がっていた可能性もありますが、現在は、浸食により洗い流されてしまったようです。
少女がスウェーデンの湖底で、1500年前の剣を発見
サガ・ヴァネセックちゃんは、普段と名にも変わらない日に、とんでもない発見に出くわました。8歳のサガちゃんは、スウェーデンの南にある友達のキャビンで、石を探している時に、33インチの剣を見つけたのです。
サガちゃんは、剣を見つけると、それを振り回して、"お父さん、剣見つけたよ!"と叫んでお父さんんの方へ走っていったのです、この発見のおかげで皆の注目を集めたサガちゃんは、“剣のお姫様”とか、“北のお姫様”などと呼ばれるようになりました。その剣は、木、皮そして金属でできており、1500年前にヴァイキング地方で作られたものと推定され、現在は、スミソニアン博物館に展示されています。
ヴァン湖の古代トルコ遺跡
2017年に、考古学のダイビングチームにより、トルコにあるヴァン湖で、水没した要塞が発見されました。ヴァン湖の水は、深みのある青色で、ツーリストの観光スポットだったので、その驚きもひとしおでした。考古学的サイトは、一キロほどですが、要塞の壁は、10から13フィートにもなります。
この遺跡の推定年齢は、約3千年で、おそらく鉄器時代のウラチアンの時期に建設されたものだと見積もられています。また、湖は、古代のウラルトゥ社会において重要な拠点だったようです。湖の高さも時とともに増していき、都市を飲み込んでいったと思われ、湖の中にとても古いウラチアンの記録が刻まれた石も見つかっています。
サック・ウアヤム
メキシコのユカタン半島にあるサック・ウアヤムとして知られる水の溜まった穴(シンクホール)は、水中考古学者たちによって探検され、さまざまな発見へと繋がったのです。このシンクホールは、自然の穴が、地下水の下にあった石灰石が陥没してできたセノーテです。セノーテは、呪われた、霊に取りつかれた場所であると、考古学者が探索していた時、ずっと昔からこの地方で語り続けられていました。更に、骨だらけの床に繋がった二つのチャンバーも発見されました。
頭蓋骨は、普通の状態ではなく、伸びきった状態でした。これは、古代の時代の何かの風習だったようです。この発見により、考古学者は、セノーテは、単なる死体を捨てる場所だけではなく、疫病などを患った人を埋めたのにも使われたのではと、推測されています。
デンマークの船首像
2015年に、15世紀に作られたとみられる船首像のついたデンマークの軍艦機グリブシュンデが、海の底から引き揚げられました。グリブシュンデは英語で、"犬をつかむ"という意味で、1945年からバルト海の底に沈んでいました。その船首像は、敵を脅す目的で作られ、ドラゴンの口に、ライオンの耳、それから口には食べられている人が入っているような海のモンスターを表しています。
船首像は認証目的で作られ、これにより、何かを読んだり書いたりしないで、いろいろな船を区別することができたのです。この戦艦はまた、スウェーデンの沿岸で燃えてしまうまで、デンマークの王直属軍のハンズ王の旗艦としても使われていました。1970年代まで海の底に沈んでいて、2015年に発見されました。
インドの失われた都市
2001年に、海洋生物学者によって、インドの沿岸の西にあるカンベイ湾で、水面下120フィートの所に遺跡物を発見しました。この遺跡から出てきた人工物は、古代の聖都であるドワルカのものであることが判明し、これはインドで一番研究されている水没した都市なのです。ものすごい数の石造りの建築物が広大な範囲で散在し、インドの神話に出てくる都市だと信じられています。
ドワルカは、古代インドの西海岸で最も栄えた貿易港であったことが考古学者の調査で分かり、遺跡物は中世後期時代のもので、都市は洪水にあうまで栄えていました。
パンテッレリーア岸のモノリス
2015年に、シシリア島のあたりの海底のマッピングを行っている間に、パンテッレリーア岸として知られるエリアの地中海の底39フィートにある所にモノリスを発見したのです。ダイバーが潜って調査を行ったところ、モノリスが半分に割れていたことだけしかわからなかったのですが、多くの遺跡物からの情報で、実際には、約一万年前の中石器時代に、人工的に作られたこともわかりました。
そこには3つの同じような大きさの穴があり、また石が海底にある岩とマッチしていないことから、その穴はおそらく松明を立てておくもので、何千年も前に灯台として機能していたのだと思われます。
与那国島の記念碑
1985年に、幅600フット、高さ90フットの記念碑が、日本海の沖でダイビングのインストラクターによって発見されました。記念碑を調べてみたところ、紀元前1万年前ほどのものとわかり、それはエジプトに初めのピラミッドができる5千年以上も前にもなるのです。
これには反対する人も多く、例えば、構造上、人為的に砂石のような素材で水の底に沈む前に作られたようで、三角形の切り口や解読できない象形文字からも説明が付きます。しかし、地震活動などの自然現象によるもので作られたり、岩に刻まれたマーキングも単なるスクラッチだという意見もあるのです。
クレオパトラの失われた大国
エジプトのアレクサンドリア近くの水の中で、1600年以上も前のクレオパトラの失われた大国が見つかったのです。1998年に、フランス人のフランク・ゴディオをリーダーとした海洋考古学チームにより古代都市が発掘されました。この都市は、度重なる地震や大津波の影響で水没したと考えられたにもかかわらず、発掘された人工物は、発見時にはきれいな状態だったようです。
発見の目玉は、クレオパトらの王室の居住区でした。この海の神殿は、難破船、赤い花崗岩の柱、女神イシスの像などがあり、しかも、クレオパトラの失われた大国には、スフィンクスまで見つかったのです。
隠れたスフィンクス
2014年に、バハマの近くに沈んだ難破船の調査を行った水中考古学チームは、驚くべきものを目にしたのです。水の下で目にしたものは、なんと、エジプトのグレートスフィンクスに似た像だったのです。歴史家のジャック・ニールソンによると、"構造的に疑う余地は全くなくて、中東を起源とする像で、おそらくエジプト産でしょうね"ということです。
また、化学分析の結果によると、紀元前3500年前のエジプトの地域にあるワディ・ラハヌ近くの発掘場から出たものであることが極めて高いことが明らかになっています。それが、一体どうやってそこで発見されたのかは謎に包まれていますが、おそらく2500年以上もその海の中に佇んでいたのでしょう。
ミシガン湖のストーンヘンジ
2007年に、ミシガン湖の難破船を調査しているときに、ノースウェスタンミシガン大学の水中考古学の教授であるマーク・ホーリーと、その同僚のブライアン・アボットが面白いものを見つけました。ソナーで調べたところ、場違いであるように石の列が存在しており、ダイバーを潜らせて更に詳しい調査を行いました。そこには、石柱が湖の床に乱雑にあり、石柱の一つには、マストドンが刻まれたものもありました。その動物は、一万年前にはすでに絶滅しているのです。
実際に確固たる証拠は何もなく、調査も未だ続行中ですが、研究者も、懐疑的な人たちも、その柱の構造や象形文字の存在からも、更なる調査が必要だと考えています。
最初のオリーブ生産工場
イスラエルのハイファ沿岸沖で、7500年前の井戸、また新石器時代の村の様子がうかがえる遺跡物も発見されたのです。この遺跡物は、金属や陶器を使用する以前の時代の村からの出土品で、この土地は時間とともに土地が隆起したため、今は水深16フィートの場所に存在します。この発見のおかげで、人々がどのように働き、どのように物々交換をし、どうやって周りにあるものを生かして生活してきたか、先史時代の社会のしくみをより知ることができたのです。
また、その発掘現場で、何千個もの砕けたオリーブの石が見つかり、当時のオリーブオイルを作る様子も伺えました。これが、現存する最古のオリーブ製造工場だったか気になる所です。
日本侵略に使われたモンゴルの難破船見つかる
13世紀には、モンゴルのチンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンが、日本侵略を西暦1274年と1281年の二度にわたって行いました。二度の襲撃両方とも成功するかに見えたのですが、巨大な台風のせいで船団は壊滅してしまったのです。2014年には、高島沿岸と長崎県のあたりで、モンゴルの船が発見されました。
ソナーによって、海面から45フィートの場所で、その船は発見され、ダイバーたちの調査で、その船の保存状態も比較的いいこともわかりました。そのおかげで、船の製作目的や当時の航海技術も伺えることができたのでした。