いつだって、何に出くわすか分からない海に繰り出すのは冒険です。そして、これこそ正に東アジア沖の漁師らが体験したことでした。公海を航行中、何か暗い影が近づいてきていることに気づいて、漁師らはその場で凍り付きました。しかし、その影がさらに近づくにつれ、正体を調べなければならないと思ったのです。さぁ、漁師らは何を見つけたのでしょうか。そして、なぜ捜査当局が関与せざるを得なくなったのでしょうか。
何か危険なものが近づいてきた?
今回漁師らが体験したことは、おそらく一生に一度あるかないかのことでしょう。2018年8月30日、東南アジアはミャンマーのヤンゴン地方で漁をしていた漁師らは、突如として作業を中断せざるを得なくなったのです。
はじめは何が近づいてきているのか分かりませんでした。暗い影は、これまでに見たこともないような形をしていたのです。すぐに地元の警察に通報しなければならないと思いましたが、同時に、その影が何なのかよく見ようと近づきました。
人手を集める
まず漁師らは、できる限り地元の人たちを呼び集めました。地元の人たちやその家族を守るために、多くの人手が必要だと思ったのです。漁師らは沿岸警備隊、海軍、そして警察に通報し、状況を説明しました。
すぐに警察が現場に到着して、調査を開始しました。正体の分からない謎の物体は、何か外国のものらしいということは分かったのですが、発見者となった漁師らや地元の人たちにとってどれほどの脅威となるのか分からなかったのです。
徐々に明らかに…
警察の到着後、すぐに暗い影が幽霊船か何かだということが明らかになりました。マリーン・インサイトによると、「幽霊船というのは、何らかの超自然的活動や説明のつかない力によって海を漂う船のこと」とあります。
沿岸警備隊は、誰か船にいるのであれば合図をするように要請しましたが、何の合図も返ってきませんでした。この幽霊船には、人や動物などの気配がなく、放棄されたものだということが分かりました。
捜査は続く
ミャンマー当局は幽霊船に近づき、なぜ突然現れたのか、調査を開始しました。どうやら幽霊船の底が砂州についてしまったために、船はこれ以上動かなくなったようでした。
捜査当局は幽霊船に乗り込み、誰かいるのか、何があるのかを確認しようとしました。それぞれの捜査班がくまなく調べたにもかかわらず、誰も見つかりませんでした。さらに、この船からは遭難したことを知らせて、助けを求める遭難信号が出されていないことが分かりました。
新たな手がかり
幽霊船が砂州にはまって動けなくなっている間に、捜査当局のチームは謎の出現について調査を続けていました。そして、ついに船の横腹に書かれた手がかりを見つけます。
船の横腹には大きく白い字で「Sam Ratulangi PB 1600」とありました。この手がかりのおかげで、この船がどこからきたのかについて調べがつきそうでした。船は腐敗し始めていて、どのくらい古いのかなどは分からなくなっていたのです。
様々な説がささやかれる
さて、船の名前が「Sam Ratulangi PB 1600」と分かったことで、どのようにしてこの幽霊船がミャンマーまでたどり着いたのか、様々な推測がなされ始めました。捜査当局の中には、嵐によって航路から外れたのだろうと推測する人もいましたが、何か不吉な理由によって幽霊船から乗組員らがいなくなったのではないかと考える人もいました。
幽霊船が現れたという噂はあっという間に地元中に広がります。そして、これが予想外に大きな問題となったため、ついにはミャンマーの海軍が支援に駆けつけることになりました。
海軍、さらに手がかりを発見
ミャンマー海軍は現場に到着すると、地元の捜査当局と協力して、幽霊船からさらに多くの手がかりを見つけます。海軍は船に何があったのか、詳しく調査できる機器を用意していたのです。
船に何があるのか調べていくうちに、船自体が錆びつき、腐敗が進んでいることも明らかになりました。こうした理由から、船を動かすことはできないことは分かっていましたが、この船が遺棄されたのは別の理由によるものではないかと当局は見ていました。
もっと手がかりを見つけられたら…
この幽霊船調査は、なかなか終わりが見えませんでした。捜査当局は、突如としてSam Ratulangi号が現れた理由について、何かもっと手がかりがほしいと思いながら調査を続行しました。
ミャンマー・タイムズのインタビューに答えて、ヤンゴンの捜査員ユー・ネ・ウィンは、当局が発見したものや捜査を続けたいと考えている理由を説明しています。「船からは乗組員も荷物も見つかりませんでした。どうしてミャンマーの海域にこんな大きい船が流れついてきたのか、謎のままなんです。」
幽霊船の暗い過去
複数のチームが船を調査したにもかかわらず、乗組員や乗客がどこにいったのかについて手がかりを見つけることはできませんでした。捜査当局や軍は、さらに詳しく調査をしなければならなくなったのです。
やがて、およそ175メートルのこのコンテナ船が2001年にインドネシアで作られたことが明らかになりました。さらにSam Ratulangi号は同年に貨物を載せて処女航海しており、その後も世界中のあちこちの国へと荷を運んでいたのです。
貨物船としての最後の航海
当初、この巨大船はあちこちどこへでも、そして何度でも貨物を運ぶことができるだろうと思われていました。しかし、船の建造から8年後、Sam Ratulangi号は最後の航海へと旅立ったのです。
捜査当局は、この船が発見されるまでの9年間、海を漂い続けていた可能性があると考え、航海日誌(ログブック)を調べました。そしてミャンマー当局は、この船がインドネシアに登録されていたことを発見します。さらに航海日誌の最後には、2009年に台湾に立ち寄ったことが記載されていました。
失われた時間
航海日誌の最後の記録が2009年ということは、つまり、9年間もこの船の所在が分からなくなっていたことを意味しています。この9年もの間、貨物船は一体どこにあったのでしょうか。
もちろん、乗客を乗せていないため記録には残りませんが、幽霊船が外洋をずっと漂っていたという可能性も考えられます。しかし、どうもそれだけではなさそうでした。さらに調査を進めるにあたって、捜査当局は東南アジアの地理や地形などを見直すことから始めます。
船の通ってきた道を調べる
この船には操舵装置がすでになく、外洋に出しても問題となる可能性は多いにありえます。ミャンマーの海岸線は、本来、何も積んでいない貨物船が来るような場所ではないのです。
シッタン川の強い流れと浅瀬を進むことで、船は腐食し、錆びついたに違いありませんでした。この貨物船のように大きな船がシッタン川をかすり傷をつけることなく通り抜けて海に出るのは不可能です。そもそも、この420キロメートルにも及ぶ川は、木材を運ぶ小さな船が行き来するためにあるのです。
乗組員らはどこへ…?
このSam Ratulangi号の乗組員らがどこに行ったのか、誰もが疑問に思うでしょう。こんな巨大な貨物船が人も乗せず、海を漂うことは不可能だと思われるからです。それでも、乗組員らがどこにいったのか、その答えは得られそうにありませんでした。
貨物船を調べていた捜査官らは、突然、あることに気づきます。これは、長年船に乗った経験を持つ人でないと、とても気づけなかっただろう小さな手がかりでした。
新たな新事実が!
船を調査している捜査官の視界の端にちらっと映ったのは、2本のケーブルでした。そして、この手がかりをもとに、さらに調査が進められました。
ミャンマー警察は、この貨物船が9年前に台湾を出てから何が起こったのか、航海日誌を調べ続けていました。調査を進めるうちに、何か奇妙なことに気づいたのです。どうやら、ミャンマーの海岸に打ち上げられたのは、Sam Ratulangi号だけではなかったようでした。
もう1隻の船
どうやら、幽霊船は1隻だけではなかったようです。捜査官のうちの1人が見つけた2本のケーブルは、実はとても重要な手がかりでした。なんと、このケーブルは「Independence」と呼ばれるタグボートに繋がっていたのです。
Independence号は2009年に貨物船Sam Ratulangi号が行方不明となって以降、ずっと同船を引っ張っていましたが、いつの間にかケーブルが切れてしまい、タグボートは行方不明になっていました。ミャンマー海軍は、Independence号に幽霊船の乗組員などについて何か手がかりが残っていないか調査することにしました。
Independence号を探すことに…
ミャンマー当局は、Independence号を見つけるためには海岸線沿いを探せばいいのではないかと考えました。そして予想通り、Sam Ratulangi号が打ち上げられた場所からおよそ80キロメートルほど離れた場所でIndependence号を見つけたのです。
さらに、Independence号には13名ほどの乗組員が乗っていたため、捜査当局はついにこれまでの謎を解き明かすべく、質問をぶつけることができました。さぁ、幽霊船はこの空白の9年間、一体どこで何をしていたのでしょうか。
さらに疑問が浮かぶ
ムダにする時間などありません。ミャンマー当局は、Independence号に乗っていた乗組員らに、これまでの経緯や幽霊船との繋がりについて尋問を行いました。そして、2隻の船には強い繋がりがあることが明かになったのです。
捜査当局の調べに対し、乗組員らはIndependence号とSam Ratulangi号がケーブルで繋がれていたときからIndependence号に乗船していたことと話しました。突然、悪天候に見舞われたために、航路を変えたということでした。
状況を明らかにしよう
Sam Ratulangi号がミャンマーの海岸に流れ着く前まで、Independence号の乗組員らが同船をケーブルに繋いで引っ張っていたのは明らかでした。事実、乗組員らはこの幽霊船を解体するためにバングラデシュへと向かっていたのです。
だが、悪天候に見舞われ、これ以上Sam Ratulangi号を牽引すると危険だと判断した乗組員らは、ケーブルを切断せざるを得なくなりました。その後、Sam Ratulangi号はバングラデシュとミャンマーの間に位置するベンガル湾に漂着したのです。それでも、まだ疑問は残されたままです。一体、貨物船の乗組員らはどこへ行ったのでしょうか。
捜査当局、幽霊船の乗組員らを探し続ける
Independence号に繋がれている間も乗船していたはずのSam Ratulangi号の乗組員らは一体どこへ行ったのでしょうか。ミャンマー当局は捜索を続行しました。悪天候に見舞われたとき、これ以上船に乗ったままだと危険すぎると判断して貨物船を放棄したのだろう、との推測がなされていました。
ところが、捜査が長引けば長引くほど、謎は増えていく一方です。行方不明の乗組員らの手がかりを得ることはできませんでしたが、明らかになったこともありました。
幽霊船に残されていたもの
Sam Ratulangi号の外側は腐食が進んで錆びついていたものの、船の内側はまったく様子が異なっていました。放棄された後にメンテナンスなどまったく行われていなかったものの、内部はきれいな状態のままだったのです。
これを見た捜査員らは疑問を抱きます。Independence号をケーブルで繋いで一体何をしていたのでしょうか。Sam Ratulangi号がバングラデシュの工場に着けば、解体され、取り壊される予定でした。船内はまったく問題なく機能しているのに、なぜ取り壊す必要があるのでしょうか。
問題なく機能する船なのに…
コンテナ船の耐用年数は短くありません。Sam Ratulangi号は2001年に建造され、25~30年の耐用年数が見込まれているはずでした。わずか17年ほどしか経っていないのに、取り壊す予定…?
捜査員が発見した2本のケーブルですが、Independence号がこれを使いSam Ratulangi号をけん引していたことは明らかでした。Sam Ratulangi号は取り壊すには使用年数が少なすぎます。しかも船内は問題なく機能するのです。捜査当局はこの点に引っかかりを感じていました。
何かおかしい…他の動機がありそうだ
まだ機能する船を解体するために工場に運ぶ、捜査員らはこの点が納得できませんでした。実は、この船を解体しようとしている人達は、船の中古品部品を売るジャンクヤードに売ろうとしていたのです。
つまり、Independence号の乗組員らは、何かを隠している可能性が多いにありました。Sam Ratulangi号がなぜ解体されるのか、それは確実に金銭が絡んだ理由がありそうでした。
金銭的報酬がカギ
捜査員らはついに、なぜIndependence号がSam Ratulangi号を牽引していたのか、理由を絞りこむことに成功します。Independence号の乗組員らは、バングラデシュの工場に船を引っ張って行くことで何らかの金銭的報酬をもらうつもりだったのです。
幽霊船の所有権を主張する人は誰もいなかったため、これは取ったもの勝ちの状態だったようでした。この船を解体するには時間がかかるが、安全に実施するための規制などはなく、解体しようとする工場作業員らがこんな巨大なコンテナ船の解体作業中に重傷を負う可能性もありました。
船は今どこに?
Sam Ratulangi号について、やっと謎が解けてきたミャンマー当局は胸をなでおろしました。幸い、船はミャンマー海軍の管理下にあり、安全に保管されています。しかし、捜査が完全に終わったわけではありませんでした。
当局は引き続き、幽霊船が失踪していた9年間もの間、どこにいたのか、そして何が起こったのかについて調査しています。さらに、船を放棄した乗組員らや行方不明となった貨物、さらに船の経緯についても情報を集めています。おそらく、これらの謎もいつか明らかになることでしょう。
忽然と姿を消した搭乗員
1943年4月4日、B-24D爆撃機は最初で最後となる任務のため、イタリアへと飛びました。その帰路で、搭乗員は機体の損傷や視界不良となる砂嵐を報告しています。そしてその後、何の音沙汰もなく機体が消え失せたのです。そして機体が見つかったのは、なんと15年以上経った後でした。
消え失せた「レディ・ビー・グッド」機の詳細については、70年以上も謎のままでした。飛行機がこんなに長い間見つからないのも、不気味でした。さらに機体が見つかった後、搭乗員の存在を示す手がかりが残されていなかったことで、一層不気味だとさえ言われていました。この驚きの謎について、ご紹介しましょう。
レディ・ビー・グッドが第二次世界大戦に参入した経緯
1943年、連合軍はイタリアに目を向けました。というのも同年、イタリア国民は独裁者ベニート・ムッソリーニに、反政権、反戦の声をあげたのです。アメリカ陸軍はこの混乱に乗じて、ヨーロッパでの形勢を一気に変えようと目論んでいました。
そして地上部隊をイタリアに派遣する前に、イタリアの軍事拠点を空から破壊すべく爆撃航空団を派遣しようとして、この任務のために数名のパイロットらを集めました。そして、このうちの1機がUSAAF(アメリカ陸軍航空軍)のB-24Dリベレーター爆撃機「レディ・ビー・グッド」だったのです。
レディ・ビー・グッド機の任務
当初の計画によると、レディ・ビー・グッド機はリビアにあるアメリカ空軍基地から飛び立ち、地中海を越えて、1943年4月4日にナポリを爆撃する予定になっていました。その後、リビア基地へ帰還し、次なる任務に就くことになっていたのです。
もちろん、この任務がスムーズに行われていたのであれば、こうしてレディ・ビー・グッド機についての記事が紹介されることもなかったでしょう。レディ・ビー・グッド機は予定通り離陸して編隊に加わりましたが、経験の浅い搭乗員らは悪天候に苦しめられたのです。
経験の浅い搭乗員ら
レディ・ビー・グッド機には、第376爆撃航空団に所属する9名の搭乗員、操縦士としてウィリアム・ハットン、副操縦士にロバート・トナー、航法士にD・P・ヘイズ、銃手にガイ・シェリー、ヴァーノン・ムーア、サミュエル・アダムス、通信士にロバート・ラモット、航空機関士にハロルド・リップスリンガー、爆撃手にジョン・ウォラフカが配属されました。全員、3月にリビアに到着したばかりでした。
同戦隊に加わるのが初めてとは言え、9人はかなりの軍事訓練を受けていました。ただ、操縦士のハットン大尉を含め、ほとんどの兵士にとって、これが初めての作戦任務だったのです。
離陸時点ですでに後れを取っていた
3月25日、レディ・ビー・グッド機は第376爆撃航空団の第514爆撃隊に配備されました。ナポリ湾を爆撃する任務を課された25機のB-24の中の1機です。任務は2波に分かれ、12機の先行編隊に13機の後続編隊が続くようになっていました。レディ・ビー・グッド機は後続編隊13機のしんがりを務める予定だったのです。
午後2時15分、レディ・ビー・グッド機はスルーク飛行場から離陸します。この時点ですでに編隊の残りの機体から後れを取っていましたが、この後砂嵐が彼らを襲い、運が落ちていったのです。
始まりから順調ではなかった
航行中、強烈な砂嵐にあい、視界不良に陥りました。後続編隊の航空機のうち、9機のB-24がスルーク飛行場に引き返していました。砂が航空機のプロペラに入り、任務遂行は困難だと思われました。しかし、レディ・ビー・グッド機のプロペラは問題なく作動していたことから、ハットン大尉は引き続きナポリを目指すという判断を下しています。
ナポリまでの航行はまったく容易なものではありませんでした。激しい風に襲われて、レディ・ビー・グッド機は後続編隊の他の航空機からも離れてしまったのです。自動方向探知機を使ってナポリ湾の位置を確認できましたが、そこまでたどり着けたこと自体がすでに奇跡とも言えるでしょう。
飛行を継続した数少ない航空機のうちの1機
レディ・ビー・グッド機がナポリに到着したのは午後7時50分頃のことでした。しかしすでに爆撃を開始していた他の航空機から遠く離れていた上、ナポリ上空の視界も不良だったため、一次目標も二次目標も確認できませんでした。
残りのB-24機の航行も困難を極めていました。すべての航空機から視界不良が報告されていました。そんな中でも、全体的にこの任務はそこそこうまくいったと言えるでしょう。というのも、2機の爆撃機が帰路上にあった二次目標地を爆撃したのです。残りの爆弾を地中海に投棄し、帰途へついていました。しかし、レディ・ビー・グッド機は違いました。
爆撃前に引き返すことに
B-24機のうちの何機かはナポリ爆撃任務を遂行した一方で、レディ・ビー・グッド機はナポリまでたどり着いたものの、視界不良で任務を果たせず、スルーク飛行場に引き返すことにしています。編隊の爆撃機がナポリに奇襲をかけたが、レディ・ビー・グッド機はスルーク飛行場に戻ろうと、単体で帰路についたのでした。
単独飛行と言えば何やら困難なように思われますが、搭乗員らはこれに対処するのに十分な訓練を受けていました。残りのB-24機と同じく、重量軽減と燃料節約のために地中海上に爆弾を投棄しました。そしてその後5時間、何の問題もなく飛行を続けたのです。ハットン大尉が無線で連絡を入れるまでは。
助けを求めて
午前12時12分、パイロットのハットン大尉は通信機で基地を呼び出し、「ADFが機能していません。」と伝えています。「QDM願います。」とも。つまり、ハットン大尉は自動方向探知機が故障しているため、基地の位置を問い合わせたのでした。
スルーク飛行場の兵士らはすぐに基地の位置を送信しました。しかし、なぜかハットン大尉は基地からの送信を受信していませんでした。ドイツ軍による無線信号の妨害ではないかとも噂されていますが、実際にはこの理由は分かっていません。
基地の近くで...
スルーク飛行場では、B-24機のエンジン音が聞こえたと言います。兵士らはレディー・ビー・グッド機に違いないと、注意を喚起するために照明弾を打ち上げています。報告書によると、少なくとも1人の兵士が頭上を通り過ぎるB-24機のエンジン音を聞いたと報告されています。しかし、レディー・ビー・グッド機は着陸しなかったのです。
頭上を分厚い雲が覆っていたために、搭乗員らは照明弾を見落としたに違いありませんでした。スルーク飛行場を通り過ぎたレディー・ビー・グッド機は、方角などが分からないまま、その後2時間以上も飛行を続けました。
墜落、そして搭乗員らの痕跡がなく
スルーク飛行場の兵士らがその後レディー・ビー・グッド機から無線連絡を受信することはありませんでした。天候が回復した後に捜索救助隊が派遣されましたが、航空機も搭乗員も見つけることはできませんでした。手がかりや目に見える痕跡もなく、スルーク飛行場ではレディー・ビー・グッド機が地中海で墜落したのだろうと推測されました。
第二次世界大戦中に姿を消したのはレディー・ビー・グッド機だけではありませんでしたが、これは後々で機体が見つかった数少ないケースなのです。第二次世界大戦から十数年後、偶然にもレディー・ビー・グッド機が発見されたものの、謎は一向に解決しませんでした。
偶然の発見
1958年、ダーシー石油会社(後のブリティッシュ・ペトロリアム)はリビア砂漠を調査していました。11月9日、同社の石油資源探査隊はクフラ地区北東上空を飛行していました。
飛行中、砂漠に墜落した航空機に気づいた搭乗員は、これをウィーラス空軍基地に報告しています。しかしながら、その地域に墜落したと考えられる機体に該当する記録もなく、空軍はその機体の引き揚げ作業にまったく乗り気ではなく、この報告に対応しませんでした。それでも、この石油資源探査隊は地図上に機体の位置を記録しておきました。
レディー・ビー・グッド機、ついに確認
レディー・ビー・グッド機の機体は目撃されていたものの、前述の理由により、それがレディー・ビー・グッド機と特定されていなかったため、調査が行われたのは翌年のことでした。1958年、シルバーシティ・エアウェイズ・ダコタのパイロットと、匿名のもう1人のパイロットにより、墜落した航空機が再び目撃されています。さらに、1959年2月27日、イギリスの石油資源探査員らがレディー・ビー・グッド機について報告した後、ついにウィーラス空軍基地は調査に乗り出します。
1959年3月26日、回収班が派遣され、レディー・ビー・グッド機の残骸を調査しました。結局のところ、同機はスルーク飛行場の南東方向におよそ710キロメートルも離れたところで着陸していたのです。そして、同機から何が発見されるかについて、誰も予想していませんでした。
まるで搭乗員が突如として姿を消したよう
レディー・ビー・グッド機の機体は2つに分割されていたものの、保存状態は良い方でした。搭乗員らが失踪した夜に連絡が取れなくなっていましたが、通信機はまだ使える状態にありました。50口径の機関銃も問題ありませんでしたし、銃弾もこめられたままでした。ただ、搭乗員らだけが跡形もなく消えていたのです。
機体から遺体は見つかりませんでした。どういったわけか、搭乗員らは食料と水を残したままだったのです。魔法瓶の中に残っていた紅茶は、まだ飲める状態でした。搭乗員らが機体におらず、食料品などを携帯していないとしたら、一体、どこへ行ってしまったのでしょうか。
謎は残ったまま…
墜落現場では謎が解明されるどころか、ますます深まるばかりです。搭乗員らがレディー・ビー・グッドの機内にいないということであれば、一体どこにいるのでしょう。どこかへ行ったのであれば、なぜ食料や水などを持って行かなかったのでしょうか。しかも、無線機が動作するのに、なぜスルーク飛行場の基地に連絡しなかったのでしょうか。
謎を残したまま、1959年5月~8月まで捜索は続けられました。この間、アメリカ陸軍は地上だけでなく、上空からも捜査を実施しています。あまりに長時間にわたり捜査を行っていたため、細かな砂や風によって機器が劣化し始めたほどでした。しかし、靴やパラシュートが発見された以外に、レディー・ビー・グッド機の搭乗員らの手がかりはまったくと言っていいほどつかめませんでした。
2度目の捜索を開始
最初の捜査では、ダーシー石油会社の調査員ゴードン・バウワーマンがウィーラス空軍基地の捜索に参加していました。バウワーマンは機体を調べた後、その詳細についてウォルター・B・コルバス中佐に書簡をしたため報告しています。報告したバウワーマンにも、コルバス中佐にも、搭乗員らに一体何が起こったのか、まったく見当がつきませんでした。
コルバス中佐の助けを借りて、ウィーラス空軍基地はもう一度、ドイツのフランクフルトにあるアメリカ陸軍需品科の遺体安置業務班(遺体回収を任務とする)と共に捜査を開始します。しかし、あまり成果がなかったため、1960年の始まりまでに陸軍需品科の兵士らは引き上げました。それでも残りの兵士らは現地に残って搭乗員らを探し続けたのです。
5名の搭乗員を発見
レディー・ビー・グッド機が発見されてから2年後の1960年2月11日、捜査班はついにサハラ砂丘に埋もれていた5名の搭乗員を発見します。見つかったのはハットン大尉、ヘイズ少尉、トナー少尉、ラモット三等曹長、アダムス軍曹でした。この発見の後、捜査班の作業員らを助けるべく、アメリカ陸軍需品科の遺体安置班が現場に戻ってきました。
搭乗員らと共に懐中電灯やパラシュートの切れ端、フライトジャケット、たった1本の水筒が見つかりました。しかし、何といっても特筆すべきは、副操縦士だったロバート・トナー少尉のポケットから日記が見つかったことでした。
クライマックス作戦
5名の搭乗員らが発見された後、アメリカ陸軍が捜査に戻りました。この遺体回収任務を「クライマックス作戦」とし、残り4名の搭乗員らの発見に全力を尽くしました。この作戦は2月~5月まで続いています。
やがて、5名が発見された位置からおよそ30キロメートル北東に進んだところでシェリー軍曹が発見されます。また、シェリー軍曹よりもおよそ40キロメートル北に離れたところでリップスリンガー三等軍曹が見つかりました。どうして2人は別々の場所で見つかったのでしょうか。どうして他の搭乗員らからも離れていたのでしょうか。まだ謎を残したまま、クライマックス作戦は終了しました。
最後の発見、すべての手がかりを繋ぎ合わせる
アメリカ陸軍需品科がクライマックス作戦から引き揚げた後も、ダーシー石油会社は捜索を続けました。そして8月、爆撃手だったウォラフカ少尉をついに発見します。これで見つかっていない搭乗員は、銃手かつ通信士だったムーア軍曹のみとなりました。
搭乗員らのほとんどが見つかったことで、捜査班はデータの回収を始めた。トナー少尉の日記に書かれていた情報を精査し、レディー・ビー・グッド機の搭乗員らに何が起こったのかについて、仮説を立てることができました。
何が起こったのか
レディー・ビー・グッド機の搭乗員らに実際に何が起こったのかを知ることはできませんが、専門家らは発見された手がかりなどから情報を繋ぎ合わせていきました。爆撃手のウォラフカ少尉のメモから、「何が起こっているんだ?家に帰れるのか?」という会話がなされていたことも明らかになりました。
あの夜、レディー・ビー・グッド機の燃料が空になりそうだったため、搭乗員らは航空機を放棄せざるを得なかったようでした。そして、搭乗員らはパラシュートで地中海に落下すると思い込んでいたようです。しかし実際に降り立ったのは、広いサハラ砂漠の真ん中に延々と続くカランシオ砂海だったのです。
食料などをどうして残していったのか
搭乗員らがパラシュートで脱出してからも、レディー・ビー・グッド機は最終的に墜落するまで26キロメートルほど飛行し続けました。こうした経緯によって食料などが機体に残ったままだったのです。近くに町があるはずだと信じて、飛行機に乗ったままでいるよりも脱出して助けを求めようとしていたのです。
搭乗員らは、自分達の飛行機が歩ける距離に墜落したことを知る由もありませんでした。飛行機には水も、食料も、日陰も、そして無線機もあったのに。もしもレディー・ビー・グッド機を見つけていたならば、搭乗員らは救助を待てたかもしれませんでした。残念なことに、機体がある場所とは反対の場所へと移動していたのです。
搭乗員ら、8人で再び集まる
無事にパラシュートで着地した後、搭乗員らは手持ちのリボルバー拳銃や信号拳銃を空中に発砲して互いの位置を確認したようでした。9名の搭乗員のうち、8名がこうして再び集合します。8名は知りませんでしたが、実はウォラフカ少尉はパラシュートが開かず、着地の衝撃により死亡していました。
そして、ここからはトナー少尉の日記から得られた情報を繋ぎ合わせて推測されています。トナー少尉によると、搭乗員らは自分達が地中海の海岸近くに降下したと推測したようでした。しかし実際には、640キロメートルも内陸に入っていたのです。専門家らは、機体から夜に見下ろした砂漠が海のように見えたのだろうと推測しています。
灼熱の砂漠に、水筒は1本のみ
トナーの日記によると、搭乗員らは(自分達が地中海沿岸に降下したと信じていたため)北西に向かったとありました。サハラ砂漠を歩くのに、手元にあるのはほんのわずかな食料と1本の水のみでした。毎日、水筒の小さなキャップ1杯分ほどの水を飲みました。
一行はライフジャケットやパラシュートの一部、靴などを道しるべのように残しながら進みました。専門家らは、こうしていつでも引き返せるように目印としたのだろうと推測しています。トナーは一行が日中に休んで、夜間に歩いたと記しています。
悲惨な徒歩行軍
4月7日水曜日にはもう、一行の苦難の様子が記されていました。「眠れない」と日記に書き記しています。「みんな足が痛い」とも。わずかな食料と水で3日間歩き続けていた疲労が重くのしかかり始めていた。しかし、状況は一向に良くなりませんでした。
翌日、砂嵐にあって視界が遮られました。「ラモットの目がやられた」と、トナーは書いています。おそらく、砂嵐で目が見えなくなったのでしょう。「みんな目が見えづらい。」砂嵐の中も、一行は北西へ進み続けました。
5名がとどまり、3名はそのまま進む
パラシュートで着地してから4日後には、墜落現場からおよそ130キロメートル離れたところまできていました。5人にはもうすでに体力が残っておらず、これ以上進むことはできそうにありませんでした。そこでシェリーとリップスリンガー、ムーアは5人を残して救援を求めて歩き続けることにしたのです。
トナーはとどまりました。そして最後の日となる日記にこう記録しています。(3人が行ってから)4日間の間、みんな助けを祈り続けていたと。そして、「夜はとても寒い。」「眠れない。」とも。誰かの助けを求めて歩き続けた3人に、その後何が起こったのかは分かっていいません。
最後の日々
4月12日月曜日、トナーの日記に最後に鉛筆で濃く書かれていた一行は、「助けはまだ来ず、とても寒い夜」でした。5人の命が砂漠でついえてしまう前の、最後の記述となりました。悲しいことに、レディー・ビー・グッド機と反対方向に歩いていたことに、誰も気づいていなかったのです。
シェリーは5人から32キロメートル離れたところで、リップスリンガーは43キロメートル離れたところでそれぞれ見つかっています。ムーアが発見されることはありませんでした。結局、搭乗員らはサハラ砂漠の中で8日間歩いて息絶えました。
戦死した兵士らを讃えて
8人の遺体が発見されると、戦死者を讃えてアメリカ国旗でその遺体はくるまれました。捜索隊はサハラ砂漠の真ん中で、彼らにふさわしい葬式が執り行われました。その後、アメリカの家族の元へと送られ、埋葬されています。
今日、ウィーラス空軍基地の教会にはレディー・ビー・グッドの搭乗員らを追悼して、ステンドグラスが展示されています。さらに、レディー・ビー・グッド機のプロペラはミシガン州のレイク・リンデンに展示されています。
機体に何が起こったのか
サハラ砂漠に墜落して置き去りにされていた17年間の間に、記念品ハンターらの手によってレディー・ビー・グッド機の様々な部品がはぎとられていました。結果、B-24D機の部品は世界中のあちこちで売買されています。残った部品は、カリフォルニア州にあるマーチ飛行場航空博物館に展示されています。
機体の残存部はリビアにあるガマール・アブドゥルナーセル空軍基地に保管されています。墜落機がレディー・ビー・グッドだと特定された後、アメリカ陸軍に持ち帰られた部品もありますが、検証された後、他の航空機の部品として使用された部品もあります。
17年の謎、やっと解明
兵士の遺体が発見されたことは、メディアでセンセーショナルに取り上げられました。特に、トナー少尉の日記が公開されると、人々の心には悲しみや無力感が広がりました。国中が戦死した兵士とその家族を悼みました。
こうして多くの証拠品が出てきているにもかかわらず、報道されている話を信じない懐疑的な人は必ずいます。こうした人達は、兵士がベドウィン族の奴隷として売られたのではないかと考えています。ただ、こうした説には証拠がないため、懐疑的な人はそんなに多くはありません。ほとんどの人はレディー・ビー・グッドについて、証拠となる写真やトナー少尉の日記のままだと考えています。
レディー・ビー・グッドの影響
長年にわたって、人々はレディー・ビー・グッド機の突然の失踪や、いたましい搭乗員らの最後に想像力をかきたてられ、この話を基に多くのフィクション作品が作られています。
1964年、エルストン・トレヴァーはレディー・ビー・グッドとよく似ている小説「飛べ!フェニックス」を発表しました。これを基に1965年と2004年に映画が公開されています。また、SFテレビドラマシリーズ「トワイライト・ゾーン」のあるエピソード(キングナイン号帰還せず)では、レディー・ビー・グッド機が失踪した日「1943年4月5日」が砂漠の墓標に記されています。