皆さんが信じているアメリカの開拓西部って、実は西部劇の映画で形作られたって知ってましたか?アウトローや銀行強盗、インディアンとの争いなどで、昔の開拓西部は無法地帯的に思われていますが、実際の1800年代のアメリカは、そんなにスリリングでもなかったんです。
実際は、カウボーイのほとんどは、カウボーイハットなんて被っておらず、タンブルウイードなども19世後半になるまで、アメリカで見ることはなかったのです。カウボーイも、馬にまたがって銃をパンパン打っているイメージがありますが、あれも嘘です。これまで、あなたが信じてきた開拓西部のイメージが大きく崩れることになりますね。
アウトローたちは、恥じらいもなく自己アピールしまくり
映画の中では、アウトローたちは、おとなしくして、捕まらないようにしていますが、実際のアウトローたちは、恥じらいもなく自己アピールしまくりでした。それで、自然と名も知れ渡るのです。例えば、ジェス・ジェームスなどは、列車を待たせてまでも、自分の業績を自慢するために、目撃者たちに名刺なんかを渡していたのです。
ビリー・ザ・キッドは、酒場で自慢話を大声ですることで有名ですよね。更に、アウトローたちは、お互いフレンドリーで仲が良かったんです。多くのアウトローたちは、自分たちの自慢話を言いふらして、時には、大袈裟に話し、時には本当のことを話す感じだったみたいですね。
インディアンは、そんなに脅威ではなかった
西部劇などを見ると、いつもインディアンたちは、開拓者に反発しているところが描かれていますが、実際のところ、そんなことはほとんどなかったようです。歴史家のロジャー・マクグラスによると、開拓西部は、今のアメリカ社会と比べて、ずっと文明的で、平和で安全だったんです。
確かに、インディアンの中には、開拓者と交戦する部族もいましたが、多くのインディアンたちは、ブツブツ交換を求めていたのです。Hard Road West のゴールドラッシュへの道に関する歴史と知識学によれば、インディアンが殺した開拓者の数より、開拓者が殺したインディアンの数の方がずっと多かったようですし、そこに記された数も実際より少なく、20年間で426人が殺されたとなっています。トータルすると、3万の死者が出ていると見積もっています。
開拓西部は、無法地帯ではなかった
無法地帯という言葉は、よく開拓西部のことを表すのに使われますが、実のところ、現在のアメリカのほうが、よっぽど無法地帯なのです。歴史家のユージーン・ホーロンが、開拓西部は、今のアメリカ社会よりずっと文明的で、平和で安全だったと言っています。
スミソニアンによれば、"無法地帯"という名声は、カンザス州のドッジの新聞から始まったとされています。“ドッジから出ていけ”という言葉もそこから派生したものですね。この1870年代初頭に出てきたセンセーショナルな新聞で、開拓西部映画の原型ができたわけです。
カウボーイハットは、ダサイ
ステットソン帽の方が、"カウボーイハット"よりよく知られているかもしれませんが、西部劇中では、ほぼすべてのカウボーイたちが、カウボーイハットを被っていますよね。しかし、実際は、カウボーイたちは、ほとんどカウボーイハットなんて被ってなかったのです。そもそも、デザインされたのが、1865年なのです。
カウボーイハットは、ジョン・B・ステットソンによって、メキシコのバキュオロスハットをもとにデザインされたもので、国立カウボーイミュージアムによれば、現在の形になるまでに、いろいろ変化してきたものらしいです。19世紀後半にもっとも人気が出て、20世紀初頭には耐久性も増しました。でも、開拓西部時代は、ほとんど被っている人はいなかったのです。
銃の所持は、ほぼ禁止だった
西部劇の映画を見ると、ほとんどのキャラクターが腰に銃を携えていますが、実際には、ほとんどの街で銃は規制されていました。ルイジアナやケンタッキーなどの州のアウトローたちは、銃規制の法律が無効化されたこともあり、自由に銃を保持しますが、"無法地帯"で知られているドッジシティーでさえ、“銃の保持は、厳正に規制”とサインがあったほどです。
歴史家のアダム・ウインクラーによると、多くの人は、野生動物から身を守るために銃を保持していたようです。そこで、国は、銃規制を解除し、州ごとにその基準を任せました。
交通渋滞に巻き込まれる開拓民
西部劇映画のせいで、19世紀のアメリカは、小さな町で、何もないように思われがちですが、1800年代には、大都市はすでに存在しており、交通渋滞もあったのです。開拓西部では、馬車と車が同時に交通渋滞に巻き込まれていたのです。
1880年から1900年にかけて、1500万人以上の人が、アメリカの大都市に移住しています。産業が盛んになるにつれて、人々は、仕事を求めて、小さな町を離れ、大都市に移住していきました。そのせいで、小さな町は、ゴーストタウンと化していき、人の行き来が多ければ、それだけ交通が蜜と化していきます。
アメリカ西部では、ラクダが徘徊
西部劇映画が、歴史的に正確に描写しているかは、ラクダが徘徊している所を映しているかにを見ればいいのです。確かに、1800年代に、北アメリカにラクダは、すでに生息しており、ラクダは、陸軍長官であるジェファーソン・デーブスによってアメリカに持ち込まれました。デービスの考えでは、ラクダは、最低限の水で、荷物を運ぶことができるため、西部地方の発展に欠かせないと考えていました。
アメリカ軍は、ラクダ75匹を購入し、オークションでラクダを売却しています。南北戦争の間には、多くのラクダが、野生に放たれ、歴史家も、その後そのラクダがどうなったのか知る術なはいようです。
OK牧場の戦いは、OK牧場では起こっていない
OK牧場での銃撃戦は、開拓西部での最も有名な戦いのひとつであり、有名なアウトローのドック・ホリデイとアイク・クラントンの間の抗争から引き起こされた30秒銃撃戦でした。ところが、このOK牧場の戦いは、OK牧場で起こったのではないのです。
この銃撃戦は、フレモント通りのC. S. フライの写真館の傍で起こっていたのですが、ここは、OK牧場から6件ほど離れた場所にありました。ところが、OK牧場が、アリゾナ州のトゥームストーンで、ツーリストが最もよく訪れる場所として変わることはなかったのです。
カウボーイは、清潔ではなかった
西部劇中に出てくるカウボーイは、きれいで整っていますが、実際は、もっと汚かったのです。トゥルー・ウエストマガジンによれば、当時のカウボーイたちは、何週間もお風呂に入ることはなく、そのため様々な病気や寄生虫に感染することが多々ありました。
きれいな水も石鹸もなかなか手に入れることができず、開拓者たちは、動物の脂肪から石鹸を作っていました。そのため、肌にはとてもよくなかったのです。当時は、歯医者もなく、歯を抜くために、理髪店に行って、歯を抜いていたのです。インディアンたちのほうが、カウボーイたちはよりもずっと清潔だったようです。
カルフォルニアって最初のゴールドラッシュじゃなかったの?
アメリカの歴史上、最も有名で、規模の大きなものは、カルフォルニアのゴールドラッシュで、これが移民がどっと増えるきっかけとなったのです。しかし、カルフォルニアのゴールドラッシュが、開拓西部時代、一番最初のゴールドラッシュではなく、実は、一番最初に起きたゴールドラッシュは、1799年のノースキャロライナ州のカバラス群で起きたものでした。
その30年後には、ジョージア州の南アパラチアン山脈で次のゴールドラッシュが起きました。カルフォルニアのゴールドラッシュは、開拓西部3番目に起きたものですが、シルバーラッシュも起こっており、10年後の1858年に、フォーティー・ナイナーズが、シルバー発掘を求めて、ネバダ州へ移動しています。
女性のウエイトレスがやっと現れた
開拓西部時代、女性には多くの権利がなく、仕事に就くこともできませんでした。しかし、ハーヴィー・ハウスというチェーン店のオーナーであるフレッド・ハーヴィーが、女性のウエイトレスを雇い始めたのでした。
ハーヴィーは、気性の荒い男性ウエイターに嫌気がさし、すべての男性ウエイターを解雇して、女性従業員に変えたのでした。18歳から30歳の女性を雇い、30日間のトレーニングキャンプを開き、これにより、女性たちは、給料やチップももらうことができるようになり、女性も独立して生計を立てれるようになりました。
銀行強盗なんてめったに起こらなかった
西部劇映画中で、銀行強盗は、なくてはならないシーンなのですが、Foundation for Economic Freedomのラリー・シュエイカートによれば、実際には、銀行強盗はそんなに起こっていないかったようです。1859年から1900年の間に、たったの8回しか起きてないのです。
Wild World of Historyの調べによると、1800年代の銀行のセキュリティーはとても高く、他の建物と繋がっていて、金庫の上に大きな鉄球が置いてあったようです。鉄球の構造上、鉄砲で撃つと、爆発する仕掛けで、これには、銀行強盗も手を焼いたようですね。
ポニーエクスプレスは、あまりうまくいかなかった
ポニーエクスプレスは、開拓西部時代、もっとも早いメールサービスでしたが、金銭的にうまくいかず、結局、閉鎖されるまでに19ヶ月間しか運航していません。運航し始めて、2-3週間後には、アメリカ合衆国とインディアンのパイユート部族との間で、ピラビッド湖紛争が勃発し、ポニーエクスプレスは、事業停止になり、7万5千ドル(750万円)も負債がかかったのです。
ポニーエクスプレスの経営は、なかなか立ち直れず、1861年に廃業になったときには、20万ドルもの損失(現在の6億円以上に相当)が出ていました。事業期間は、以外にも短かったにもかかわらず、ポニーエクスプレスは、3万5千ものメールを届けたのはすごいですね。
カウボーイたちの多くは、身長150センチ程度だった
当時のカウボーイたちが、今の男性たちと同じぐらいの身長だったと思いますか?なんと、1800年代の人たちは、21世紀の人たちより、平均身長はずっと低かったのです。人類学者たちが、開拓西部の墓をほりだして調査してみたところ、多くの男性は、身長がわずか150センチ程度だったようです。
一番高い人でも、約168センチほどしかなかったようですね。不思議なのは、中世時代の男性は、現在の平均身長とあまり変わらいという点です。オハイオ州立大学の研究によれば、中世時代から1800年代にかけて、人々が、"小さく"なっていることが明らかになり、その原因として考えられるのは、食糧不足、気温低下、過酷な労働があげられています。
カウボーイの中には、馬に乗らない人もいた?
カウボーイと聞くと、馬にまたがった人を思い浮かべますよね?でも、実際、カウボーイの中には、馬に乗らない人もいて、まったく乗らない人も少なくなかったのです。その代わり、ラクダに乗るカウボーイもいたんですよ。1880年代後半になると、有刺鉄線の使用が増えたこと、また、家畜の病気がひどくなったこともあり、ラクダにのるカウボーイも増えたのです。
馬は、もともとスペインから輸入され、とても高価なものでした。馬を買うと、乗馬のレッスンにも費用が掛かり、庶民には高価なものでした。カウボーイたちも馬を所有していましたが、乗馬というよりは、畑ですきを引かせたり、馬車を引かせるために使用していました。
タンブルウイードは、1877年までアメリカにはなかった
開拓西部劇中のタンブルウイードを見ても、たいていの人は、何も思わないかもしれないし、1877年まで、アメリカでは見られなかったことすら知らないでしょうね。タンブルウイードの種は、ロシアアザミ産で、ウクライナの農民からアメリカに持ち込まれました。
まず初めに、サウスダコタ州で見られ始めたので、それ以外の人たちは、タンブルウイードのことは、当時知らなかったのでしょうね。アメリカでは、タンブルウイードは、浸食性の高い種と認識されており、現在も、タンブルウイードが、家の周りにはびこって、火事の原因にもなります。中には、6フィート(180センチ)になるものもあるそうです。
プロのギャンブラー
開拓西部劇中で、カウボーイたちが、酒場でポーカーをしているのを見たことがあるかもしれませんが、当時、それは単なる娯楽ではなく、実際に、プロギャンブラーとして、ポーカーをしているものもいたのです。American Heritageによると、1820年には、ポーカーで賞金を稼いでいるものも少なくなかったようです。
ポーカーは、今でも人気のギャンブルですが、1970年代には、ラスベガスのホテルオーナーのベニー・ビニオンが、Poker Hall of Fameを設立して、現在もチャンピオンを出しています。開拓西部時代、ポーカーは、かなり庶民的なもので、だれでも手軽にお金を稼いでいたようです。
水はただじゃなかった
カウボーイたちが、毎日長い間、一生懸命働いて、農場でも水が豊富で、旅をする際にも水の供給は簡単だったように感じますが、実際は、まったく違っていて、西部開拓時代では、水は高価なものでした。
当時、肉などは、1セントで売られていたのに対して、水は、"事業主"に、2-3ドルで売られていたのです。カウボーイたちも、当然裕福ではなかったので、高価な水を買うために、節約しなければなりませんでした。
ビリー・ザ・キッドは、サウスポーじゃなかった
この有名な写真に写っている、ウイリアム・ボニーこと、ビリー・ザ・キッドは、左側に銃ベルトをつけているため、一見すると、サウスポーなアウトローであると、歴史家さえ思ってしまいます。
しかし、これまた事実ではなく、良く調べると、この写真を撮った鉄板写真カメラに何か秘密があるようです。実は、鉄板写真で写真を焼くと、本当の姿と反対の像が写し出されてしまいます。つまり、ビリー・ザ・キッドは、実は、右利きだったのです。
多くのカウボーイたちは、メキシコ系だった
信じるか信じないかは別にして、開拓西部のカウボーイたちは、実は、アメリカ人ではなかったのです。その多くは、メキシコ系の人たちだったのです。カウボーイという概念もそもそもスペインからやってきて、メキシコで牧場主を育てていたヴアキュエロスから来ているのです。
スミソニアンの調べでは、開拓西部は、現在のアメリカよりも多様性に富んでいたようで、4人に1人は、アフリカ系のカウボーイだったようです。また、当時のカウボーイたちは、お互い自分たちのルーツに関係なく、生き残るために、お互い助け合ったいたようですね。
1870年代が、カウボーイの最後
信じるか信じないかは別として、1870年代以降は、もはやカウボーイは必要とされなくなりました。ジョン・ワーン・ゲイツによって、家畜は、有刺鉄線柵を超えることがないことがわかり、"今世紀最大の発見“とか、"悪魔のロープ“などと呼ばれるようになりました。有刺鉄線柵が導入されて、カウボーイの必要性がなくなったのです。
そのうえ、牛飼いやインディアンは、有刺鉄線柵で動物が怪我するのを嫌っており、中には、”ブルーデビルや、ジュベリナス“という名のグループを組織し、有刺鉄線柵を切ってまわっていました。この紛争は、カウボーイが歴史上からいなくなるまでの19世紀の終わりまで続きました。
争いはほとんどなかった
昔の西部劇映画の展開は早く、映画開始から30分で、口論が始まります。しかし、皮肉なことに、酒場でのけんかや、"外に出ろ!"的な解決方法は、実際の開拓西部では起きていませんでした。
逆に、過酷な状況で生き抜いていくことで、近所の人たちとはうまく付き合っていたようです。90パーセント以上の西部劇映画では、真昼間から銃でドンパチするシーンがありますが、実際の開拓西部の町は、安全で、現在の街よりも殺人事件もずっと少なかったのです。
Tアラモの戦いは、奴隷解放のためであり、自由解放ではない
アラモの戦いで最も知られていることは、この戦いは、開拓者がテキサスのフリーダムを求めた戦いということですが、実際は、テキサス州民たちが、奴隷の保持を求めた戦いでした。メキシコは、1829年に奴隷を開放し、メキシコの兵士たちは、テキサスに行った際には、奴隷たちを開放しています(当時は、メキシコの領地でした)。
もちろん、テキサス州民たちが、主張したのはこれだけではありません。メキシコは、最近、テキサス州民へ関税を課す法律を制定させました。それに加え、テキサス州民たちは、不法移民であり、その多くは、"海賊"となって、メキシコの法律に反発しています。
乗馬はみんなが、できるわけではない
カウボーイのイメージとして、激しく動く牛を頑丈そうな馬にまたがって世話をする様子を思い浮かべると思いますが、確かに歴史上そういったことも伝えられています。しかし、それが真実であるとは限らず、実際は、馬に乗ったことすらないカウボーイもたくさんいたのです。
広大な草原を颯爽と馬で走るカウボーイは、何とも言えず優雅に見えますが、実際の開拓西部では、それは単なる幻想に過ぎません。特に、1885年以降は、カウボーイの仕事は、馬を必要とすらせず、牧場から離れることもなく、フェンスを修繕したり、動物たちの健康を管理していたのです。当然ながら、喜んで仕事をしてはいませんでしたが。
カウボーイは、厄介者
ハリウッド、脚本家、ロデオのせいで、何十年もの間、アメリカのカウボーイ像は、理想的なものになってしまいましたが、実際には、タフでワイルドなヒーローとは縁遠いものです。特に、身なりがひどく、無教養の放浪者のようなold south sawカウボーイは、穀物を踏みつける以外何もできない役立たずだっだのです。
しかも、町中に恐怖の"テキサス熱"をまき散らしたものと思われ、町中の嫌われ者となっていました。ポップカルチャー以前は、カウボーイといえば、ただの厄介者だったのです。
カウボーイは、とにかく不潔だった
カウボーイと言えば、道徳的で、かっこよく、馬にまたがるジョン・ウエインのように、どこか怪しげにさえ思われがちですが、実際のカウボーイの生活が、ハリウッドの描写とは少し違うことを知れば、納得するでしょう。実際のカウボーイは、汚く、汗臭く、常に病気がちだったのです。
開拓西部の時代にもよりますが、50から90パーセントの娼婦は、病気持ちでした。ハリウッドが、どれだけカウボーイが、かっこいいかお膳立てても、本当のカウボーイは、ばい菌だらけだったのです。
アメリカだけが、"カウボーイ好き"ではなかった
カウボーイは、アメリカの開拓西部で名をはせたかもしれませんが、皮肉なことに、そんなに好かれてはいなかったのです。実際、カウボーイ一押しだった国は、北アメリカの国ではなく、ドイツだったのです。
ドイツでは、19世紀のころの衣装に身を包んだり、何千人ものフアンが、カウボーイのクラブに入っています。面白いことに、ドイツでのカウボーイ熱は、現代のものとはかけ離れた、第二次世界大戦時期のものなのです。
10ガロンハットは、実用的じゃない
ハリウッドの影響で、10ガロンハットは、カウボーイのの十八番の帽子見たいなっていますが、当時の開拓西部時代では、かなり実用的ではない帽子とされていました。その代わりに、ボーラーハットやダービーハットのほうが、好まれていました。
両方とも、風で頭から飛ばされにくく、どういうわけか、馬に乗った際も、速いスピードで走れたのです。そもそも、大きな帽子を被っていれば、敵から逃げにくいし、すぐに敵にも見つかってしまいますしね。
夜のお仕事をする女性たちは、裕福だった
開拓西部時代、夜の仕事をする女性たちは、苦労することも多く、あまり大手を振ってできる仕事でもなかったようです。ところが、稼ぎはどうやらそんなに悪くなかったようで、生活レベルは割と高く、好きなものを買えるほど、給料も安定していました。
裕福さもあって、彼女たちの生活は快適で、社会的にも優遇され、時には、警察にも守られていました。彼女たちの多くは、教養があって、町でも影響力のある存在となるものもいたようです。
メキシコ出身のカウボーイたち
色々なハリウッドの映画や西部劇映画などで映像化されている開拓西部のカウボーイやその様子は、とでもアメリカ風ですが、そもそもカウボーイという概念は、アメリカ文化がもとになっているのではなく、推察の通り、メキシコ境界に近い南の地方を起源としています。カウボーイの概念は、メキシコの牛飼いであるヴァキュエロスであり、それが典型的なカウボーイのイメージなのです。
メキシコのヴァキュエロスは、長時間の牛乗りや、安いロデオ、また、おそらく現在のカウボーイハットの原型であるとされるソンブレロハットなどでよく知られています。更に、ヴァキュエロスは、"ブロンコ"や“スタンピード”という専門用語さえ作っています。
カウボーイは、探検家でなはい
ハリウッドが、作ったカウボーイの冒険者的なイメージもまた、事実とは異なります。当時、山賊などは、個人主義者で、悪名高く、荒くれもので、徘徊したり、わなを仕掛けたりしていました。
動物の皮を被り、ボーイーナイフを持ち、基本的に一匹狼であり、まだ誰も知らないような未開の地で住んだり、探索して生きていました。それに対して、カウボーイは、すでに開拓されて安全な領地で、群れて暮らしていたのです。
カウボーイの生活は、そんなに魅力的でない
開拓西部のカウボーイたちは、かっこよく、いつでも完璧なタイミングで町の人たちを助けるように描かれていますが、実際は、そうではなく、カウボーイの生活は、魅力的でもなければ、ヒーロー的でも何でもありませんでした。
それどころか、その生活は牧場で働き、フェンスを修繕したり、到底綺麗にできそうもない泥だらけの汚い服装で、肉体労働主体の仕事をしていました。大抵、カウボーイたちは、地面で寝て、いつも疲れており、小汚く、鞍ずれがひどくて、腕も上がらないため、酒場を襲うことすらできなかったのです。
可哀そうなエルマー・マッカーディー
1911年に、エルマー・マッカーディーは、列車の中に大金があると勘違いし、列車に強盗に入ったところ、結局、たったの46ドルだけしか盗めず、しかも、すぐに、警察に射殺されてしまったのです。彼の死体を引き取るものも誰も出てこず、この泥棒の死体は、ヒ素で防腐処理を施され、見世物として、旅芸人の一行に売られてしまいました。
時が経ち、マッカーディーの死体は、サーカスやテーマパーク、お化け屋敷などに売り渡され続けました。1976年になって、お化け屋敷の柱として置かれていたマッカーディーの死体が、指の一つが零れ落ちたことで、初めて発見されたのでした。
オリジナルでなないにしろ、Long Branch の酒場は存在する
Long Branch の酒場は、テレビシーリーズの"ガンスモーク"内だけの建物であると思われがちですが、Long Branch の酒場が、実在する場所であることは、意外と知られていません。本当に、実在するのです。
1885年に、オリジナルの建物は燃えてしまいましたが、同じ名前で現在の酒場として再建されたのです。もちろん、カウボーイやガンマンが、徘徊する代わりに、ツーリストが、ミーハー気分で群がって、この古き開拓西部に訪れに来ます。
翼の生えたモンスターがカリフォルニアを彷徨う
神話の中では、アリゾナのテュームストーンで、羽の生えたモンスターを見つけたカウボーイの話が一番いいかもしれません。話によれば、1890年に、とてつもなく長いしっぽがあって、一対の巨大な羽が生えた大きなアリゲーターに似た"羽の生えたモンスター"が登場し、それををウエトストーンとフワチュカ山の間にある砂漠で、フワチュカから家に帰る途中だった二人の牧場主が発見したらしいです。
その牧場主たちは、空中にいたモンスターを何度も銃で狙撃したようです。この話を信じたいのはやまやまですが、何の根拠もありません。でっち上げかもしれませんが、開拓西部にまつわる話では、いい話かもしれませんね。
赤いゴーストの話
一般的に見て、砂漠の南西を馬で移動するのは、いい考えではないと思われています。そこで、ラクダに注目が集まりました。ラクダは、過酷な砂漠の状況に適しており、カウボーイたちも、良くラクダを見かけていました。
そこで、赤いゴーストのうわさが広まったのです。"ゴースト"は、背中に何かついていて、人々を恐怖に落としいれる化け物だと言われており、熊をもなぎ倒すほど、狂暴であると言われていました。結局、その赤いゴーストは、捕獲されることになりましたが、それはなんと、ただの野生の赤いラクダだったのです。
廃墟と化した鉱山は、ただのうわさではなかった
ジェイコブ・ワルツが、しきりに友達に、"世界で一番たくさん金が眠っている山々が近くにある。アリゾナのスーパースティション山脈のあたりにあると思うんだ。“と言っており、その中に金が埋蔵されていると話していました。結局のところ、金を含め、開拓西部には、多くの貴金属があったので、それは勘違いではないでしょう。
ゴールドラッシュ後に、たくさんの鉱山が廃山と化し、中には、自然災害によってなくなったものもあります。しかし、ワルツのロストダッチマンは、都市伝説みたいなもので、誰も見つけることができていません。鉱山にまつわる噂は、たくさんありますが、これは、以外にも可能性はありそうですね。
開拓者は、長旅を怖がっていた
開拓西部では、旅をする人の中には、長旅が好きな人もいれば、迷信を信じ、そう思わない人もいました。そういうこともあり、赤毛の人食い巨人が、ネバタ砂漠を徘徊すると信じる人もいたようです。
北パイユートのサラ・ウィネマッカが、1883年にLife Among the Piutes: Their Wrongs and Claimsという小説を出版し、"何百年も前に、フンボルト川付近に住んでいた野蛮な部族がいて、その野蛮人たちは、人々を待ちぶせしては殺し、食べていたというのです。いわゆる他の巨人と呼ばれるものは見たという事実はないが、その噂は、かなり信ぴょう性がある"と言っていました。
紛争と衝突の子供時代
ドック・ホリデーは、1851年の8月2日にジョン・ヘンリー・ホリデーとして誕生しました。彼が生まれる前に、父親であるヘンリー・ビューローズ・ホリデーは、メキシコとアメリカの戦いに行っており、ドック・ホリデーが子供のころには、父親は南北戦争に派遣されていました。
1862年に、家族は、北軍の脅威を恐れて、もっと南にあるジョージア州のバルドスタへ逃げました。ジョン・ホリデーの家族は、コミュニティーでも一目置かれるようになり、母親は、息子が戦争の恐怖に二度と会わないように尽力を尽くしし、戦争が過激化する中でも、ホリデーは、クラスメートや近所の人たちとは、決して争いごとを起こしませんでした。
ホリデーは、優秀な生徒でした
ドック・ホリデーが、粗暴な生徒であったと思う人もいるかもしれませんが、実際は、全く違っています。幼少期は、スピーチ障害もあり、口蓋裂も患っていましたが、何度にも及ぶ手術と、母親であるアリス・ホリデーの何時間にもわたるスピーチレッスンのおかげで、ドック・ホリデーは、ともに回復していきました。
歴史館の資料によると、ホリデーは、学校でも素晴らしい成績を残し、ティーネージャーの時には、ヴァルドスタ学校に通い、レトリック、数学、歴史などを学びました。また、ラテン語、フランス語、そして古代ギリシャ語も堪能でした。20歳になるころには、ペンシルバニア大学の口腔外科にて、歯科医の資格を取得しました。
肺炎の恐怖
1866年に、母親であるアリス・ホリデーが亡くなってしまい、母親と、とても仲が良かったジョンは、母親の死をなかなか受け入れることができませんでした。その3か月後には、父親が、自分よりたった8歳年上のレイチェル・マーティンと結婚したため、そのあとすぐに、ジョンは家を飛び出し、ミズーリ州とジョージア州で歯科医として働き始めました。
また、彼が十代のころに、ホリデー家の養子であったフランシスコも肺炎で亡くなっています。ジョンが、医師として働きだしてからは、悲劇も起こらなかったようですが、自分自身もまた、肺炎にかかっていることを知り、余命たったの2-3か月しか残っていないことも知ったのです。
歯科医であり、ギャンブラーでもある
ホリデーが、ダラスへ引っ越した後、父親の友人であったジョン・シーガー歯科医と仕事上のパートナーとなり、ふたりは、仕事上で、いろいろな賞を受賞するまでになりました。ホリデーは、初めの診断よりずっと長く生きることになったものの、咳の発作に悩まされていました。
1870年代には、彼の歯科医としての仕事は、陰りを見せ始めましたが、次に、ギャンブルという金儲けの方法を見つけたのです。ホリデーは、ギャンブルの才覚があり、すぐにギャンブルで生計を立てられるようになりました。1874年の5月に、ホリデーとほかの12人は、不法ギャンブルという理由で、ダラスからたたき出されてしまいます。
激しい争いのはじまり
ホリデーが、ダラスを去ってからは、ほとんどトラブルは起きていませんでしたが、1875年以降、ホリデーは、またギャンブルにのめり込みだしました。1877年に、ギャンブル仲間のヘンリー・カーンと騒動を起こし、二人とも逮捕されてしまいます。そのすぐあと、ホリデーは、無防備な状態で、カーンに襲われてしまったのですが、Dallas Weekly Heraldは、誤ってホリデーが死亡したと報告したのです。
そんな中、ホリデーのいとこであるジョージ・ホリデーが、テキサスのフォートグリフィンへの引っ越しを手伝ってくれました。ホリデーは、そこで"Big Nose Kate"というニックネームのホロニーと知り合いました。彼女は、独り立ちした、教養のある売春婦であり、ホリデーと唯一交流のあった人物です。
本当のドック・ホリデー
ホリデーは、気性が悪かったにも関わらず、仲間たちからは、落ち着きのある良いやつだと思われていました。新聞社のインタビューで、ホリデーが、今まで、罪の意識を感じたことがあるかと聞かれたときに、"罪悪感なんて、当の昔に吐き捨てたよ。"と答えていました。一方で、ホリデーのことを、“生来の悪者”とか、“すぐに切れる”と言う人もいました。
これまで、ホリデーは、17回逮捕されていて、5回待ち伏せを受け、首つりの刑を4回も抜け出したと語っています。ただ、これらの噂は、ホリデー自身がやったことですが、彼の死後もずっと、ホリデーの逸話が語らていることからも、彼が名実とともに、開拓西部の有名なカウボーイの一人であることがわかります。
陸軍長官ワイアット・ワープとの初めての出会い
ホリデーは、テキサスにいた間に、不正をただす弁護しであるワイアット・ワープと出会いました。噂の中では、ふたりのミーティングの詳細は記されていませんでしたが、確かなことは、二人が開拓西部でもっと恐れられた二人組になったということでした。
当時、ワープは、まだ、アメリカの保安官捕でしたが、話によると、ワープは、"ダーティー"なアウトローであるデーブ・ラダボー追いかけていました。ワープは、ホリデーが、デーブとギャンブルを一緒にしたことを知り、いろいろとデーブの所在を聞き出していました。デーブが、カンザスに逃げたと聞き出し、ワープも追いかけていき、二人は、また出会うことになるのでした。
ワープの恩人
話によると、ワープは、2人から5人のカウボーイを追っていました。夏になると、カウボーイたちは、ドッジシティーのLong Branchの酒場に通っており、ちょうどそのころ、ドッジシティーで歯医者の仕事を探しいたホリデーも、酒場の奥でギャンブルをしていました。
そこでは、カウボーイたちが、部屋で、他の客に嫌がらせをしたり、物を壊したりしていましたが、ワープがその騒ぎを聞きつけ、部屋のドアをブチやぶって入ってきました。カウボーイたちは、すぐに銃をかざし、ホリデーもすかさず、立ち上がって、リーダーの男に、銃を向け、抵抗をやめるよう言いました。新聞では公表されていませんが、どちらにしろ、ワープは、ホリデーが、命の恩人であると讃えています。
銀を求めて
1879年の10月に、ワープは、ロスアンジェルス(当時のニューメキコ)で、ホリデーと出会っています。ドックに、アリゾナのトゥームストーンに、銀探索に向かうと伝え、ホリデーは、これまで、ダコタとワイオミングのゴールドラッシュで一攫千金を狙っていたが、結局何も得ることができず、一年後に、トゥームストーンでワープと手を組むこととなりました。
その新しい開拓西部の地域には、犯罪を取り締まる警察的な組織などもなく、ワープとその兄弟で、統括していました。はじめは、群保安官であるジョニー・ビーハンも、不正行為などに目をつぶっていましたが、ホリデーがチームに加わってから、犯罪を取り締まるようになりました。
ドック(Dr.)ホリデーになる
テキサス州フォート・グリフィンで過ごしたホリデーは、喧嘩、ギャンブル、歯科治療など、さまざまなことを手掛けていました。彼は、納得のいかないサービスだったと感じる客に返金をすることで評判となり、そこから "ドック(Dr.) "というニックネームがつきました。
1878年頃、ホリデーは歯科医を辞め、数々の銃乱射の腕前から有名になりました。しかし、彼はまだ結核を患っており、1年間、ニューメキシコ州ラスベガスに移り住みんだ後に、22個の温泉の治癒効果を試したのでした。その後、ギャンブル禁止法によりドッジシティに戻されたましたが、そこからまたラスベガスに戻り酒場を建てました。そして、そこでワイアット・アープと再会することになったのです。
1881年の駅馬車強盗事件の告発者
1881年3月、3人のカウボーイがトゥームストーンに向かう駅馬車を襲う事件が発生しました。この強盗殺人を主導したのは、新参のアウトロー、ドック・ホリデーだという噂が飛び交いました。ある時、彼の元恋人ホロニーが、ホリデーが駅馬車を襲おうとしたことを密告したのです。
ホリデーは逮捕され、暴行罪で有罪になった。幸いなことに、アープス夫妻はホリデイが事件の近くにいなかったことを証明する目撃者を見つけました。その後、ホロニーは保安官ビーハンに影響されて自白し、理解できない文書にサインをしたと訴えました。このことがきっかけで、ホリデー、アープ、ビーアンの3人の間に更に緊張が高まっていくことになったのです。
アイク・クラントンとの決闘
1881年の10月25日に、ホリデーは、アルハンブラサルーンで、お茶を楽しんでいました。そこで、ホリデーは、友人でもあるアウトローのアイク・クラントンと激しい口論となり、クラントンが、武器も持っていなかったことにも関係なく。決闘を挑んだのです。ホリデーは、何もなかったことにはできず、クラントンを父親を見捨てたひどい奴だと罵倒したのです。
次の朝、クラントンは、武器を携えて、ホリデーとの決闘にふさわしいストリートを探していました。それから、クラントンは、ホリデーと、事実婚の奥さんであるメアリー・ホロニーをたたき起こしに行ったのです。それに対して、ホリデーは、皮肉気に、"神様が、私が服を着るまで待ってくれれば、きっと僕もちゃんと姿を現せるんだけどね"、と答えたのです。
どうやって一決闘が、バトルにま発展したのか
ホリデーが、決闘に参戦する前に、アープ兄弟が、クラントンから武器を取り上げ、法廷れ連れて行ったのです。クラントンが、まだ柵の後ろにいたときに、カウボーイたちが、クラントンの加勢にやってきたのです。その中には、弟のビリー・クラントン、フランク、トム・マクラ―リーもいました。ホリデーは、アープ兄弟、ワイヤット、バージル、そしてモーガンと一緒にアウトローたちと対峙していました。
次の展開は、議論される余地がありますが、ドンパチ劇が行われたでしょうね。30秒後にはすべてが終わり、その一瞬で、30発もの銃撃戦が起こったのです。
OK牧場で銃撃戦
結局、マクラ―リー兄弟と、ビリー・クラントンは、その場で死んでしまい、アイク・クラントンは、そのまま逃走してしまったのです。報告書の記録によると、ホリデーは、死んだ三人を射殺した可能性があるようですが、ホリデー、モーガン、そしてバージルは、負傷したにも関わらず、勝利者となったのです。
この銃撃戦は、牧場からすぐ近くの場所で起こったことからも、OK牧場での銃撃戦として知られるようになったようです。この銃撃戦は、西部開拓時代でも有名な出来事のひとつで、今も多くの映画やテレビで再現されています。しかし、この銃撃戦は、ホリデーとアープ兄弟に分がありすぎたようですね。
警部補になる
OK牧場での抗争の後、バージル・アープは、体が不自由になってしまい、1882年の3月に、モーガン・アープは、待ち伏せにあって殺されてしまいます。バジル・アープは、何度も待ち伏せにあったにも関わらず、生き延びることができたのですが、ワイアットとその部下たちは、バジルの命を守るのに苦労していたのです。法廷で正当化できなかったこともあり、ワイアットは、ホリデーを警部補に任命して、モーガンを討つために協力したのです。
政府の警備隊として、ホリデーとアープたちは、モーガンの命を打つことを命じられていたかカウボーイの一人であるフランク・スティルウエルを探し回っていました。結局、列車内で横になっていたスティルウエルは、列車内に潜入していたバジルによって、撃ち殺されてしまいます。
カウボーイの本当の姿
フランク・スティルウエルが死んだあと、地元の警察は、ホリデーを含めた5人の警部補を逮捕する令状を交付したのです。しかし、追撃はまだ終わっておらず、待ち伏せを終えたすぐ直後に、ワイアット・アープと、ホリデーはウエットストーン山にある鉄泉に到着したのです。
アープとともに、ホリデーは、8人のカウボーイたちに忍び寄り、撃ち殺そうとし、ホリデーたちは、少なくとも3人のカウボーイを撃ち殺しています。その間、ホリデー側の負傷したものは、馬一頭だけでした。しかしながら、逮捕状が出ているため、警備隊は、アリゾナを去って、コロラドへと向かったのです。
アープとホリデーは、別々の道へ
ホリデーとその隊は、ニューメキシコの領地を通り越し、なんとか逮捕状の届かないところへ行こうとしました。しかし、アルバカーキで、ワイアット・ワープとホリデーは、仲違いし、アープはニューメキシコへ残り、ホリデーは、そのままコロラドへと向かうことになってしまいました。
1882年に、ホリデーは、グレンウッド・スプリングス付近に到着しましたが、まだ肺炎を患っていたのです。ホリデーも何とか、きれいな水で体力も回復することを願っていましたが、デンバーへ着くとすぐに、逮捕されてしまったのです。ホリデーは、トゥーソンでの、フランク・スティルウエル殺害による逮捕状により、刑務所へ送られてしまいます。この時、ホリデーは、一人で刑務所に送られることとなったのです。
かけがえのないの友達
幸運なことに、ホリデーは、アープと完全に縁が切れたわけではなかったのです。ワイアット・ワープは、ホリデーが捕まったことを聞いて、アリゾナでは、フェアな裁判がされないと踏んで、友達でもあり、コロラドにいる警察署長のバット・マスターソンに頼んで、ホリデーに対して偽の起訴状を作成させたのです。
ホリデーが逮捕されて2週間後に、ホリデーは、マターソンと面会したのです。二人は、コロラド州のプエブロへ向かい、そこでホリデーは、保釈金を払って釈放されたのです。1882年の6月には、アープとホリデーは、再びコロラドの州のガニソンで再会したのですが、二人は、お互い亡くなるまで親友であったにもかかわらず、これが、ふたりが顔を合わす最後から2番目の再会となったわけです。
ホリデーは、ジョニー・リンゴの死に責任があったのか?
ホリデーが死ぬまでに、もう一人命を奪った可能性があります。1882年の7月に、ホリデーの宿敵でもあったジョニー・リンゴが、木の上で死んでいたのです。当初は、自殺という報告がなされていましたが、アープの三番目の妻が、ホリデーとアープが、リンゴを葬るためにアリゾナに一緒に向かったと報告しているのです。
実際の所、ホリデーが犯人であるという歴史的証拠は残っていないのです。当時、ホリデーは、アリゾナに逮捕状がでていたので、わざわざその場所に足を運んだ可能性は低いと考えれれているのです。歴史家の見解では、この話は、おそらく捏造であると推測されています。
ホリデーの最後
ホリデーは、残りの人生をそのままコロラドで過ごしました。この間、彼の体調も芳しくなく、1886年が、アープがホリデーと会った最後の年となり、ワープによれば、ホリデーは、せき込んでいて、足もおぼつかない様子だったようです。その間、ホリデーは、全財産を使い果たし、それでも酒場での争いをやめなかったようです。
グレンウッド・スプリングスの硫酸ガスは、ホリデーの健康状態を悪化させていたのです。メアリー・ホロニーも彼の最後には傍にいて、ホリデーは、自分の靴を履いていない足を見て、"なんか変だな。と、つぶやいたそうです。ホリデーは、いつもブーツを履いていたので、死ぬ時もそうであると思っていたのでしょう。
ホリデーの栄光
ホリデーは、1887年の11月に亡くなりました。彼の死後、彼の名声は、どんどん大きくなっていきました。デンバー・リパブリカンに掲載された彼の訃報欄によると、"彼ほど、危険を顧みない男はいなかったでしょう。彼の性格の様に、友達に囲まれ、チャンピオンのような強さを持っていた人もいないかったでしょう"と、述べられていました。
アープも彼に対して良いことだけを覚えていて、“彼は、とても忠実で、良い友達だったよ。”と、述べています。ホリデーの伝記は、本、映画、音楽、そしてテレビなどを通して多くの人に影響を与えています。ホリデーは、開拓西部時代の最も有名なカウボーイのひとりであると言っても過言ではないでしょう。