何年間も妊娠を試みたカナダ人夫婦のロンとナタリー・トレクローチェは、ついに養子縁組を決意する。何ヶ月も時間をかけて調べ、延々と続く書類手続きを済ませ、さらに待ち続けた結果、ロンとナタリーは小さな女の子と出会うためにルーマニアへ赴いた。
ルーマニアへ行き、そこから新しい家族の幸せなスタートを切ろうとしていた2人だったが、その子の謎に包まれた恐ろしい生い立ちを知ることに。その小さな女の子を家族に迎える前に立ち向かわなければならないこととは何だったのだろうか。
妊娠できないことを知って、ショックを受けた2人
1997年、ロンとナタリー・トレクローチェは子どもが欲しいと考え始めていた。カナダで結婚してからすでに数年が経ち、妊娠を望んでいた。
世界中にも同じような夫婦が数多くいるが、ロンとナタリーにも受精能に問題があった。2人は実の子を授かれない。だが、だからといって家族を持つ夢を諦められなかった。
養子縁組を考えるように…
ロンとナタリーは、妊娠で実子を授かることができないことに失望したものの、子どもを迎え、親になりたいと強く願っていた。そのため、家族を作る方法を模索し始める。
1990年後半は、今ほど代理出産について知られておらず、効率的だと考えられていない時代だった。ロンとナタリーは、親がいない助けが必要な子どもに「家」と呼べる場所を提供したいと考えるようになった。こうして養子縁組の手続きを始めるのも自然の成り行きのようだったが、実際には、これが衝撃の始まりだとは知る由もなかった。
ロディカに会うため、ルーマニアまで行く
ロンとナタリーは、カナダからはるか離れたルーマニアのアラドまで行くことにした。アラドはルーマニア西部にあるムレシュ川に面した都市だ。アラドに着くと、養子縁組斡旋業者のスタッフと会い、1歳の孤児ロディカ・ラヴィニア・ファルカスと面会した。
ロディカはまだわずか1歳だったが、すでにその生い立ちには謎が多かった。
一目で気に入った
ロンとナタリーは、ロディカを見た瞬間から、ロディカは自分達の娘になる運命なのだと思った。ロディカが笑っただけで、部屋全体の雰囲気が明るくなった。まだほんの1歳だというのに、ロディカはすでにたくさんのトラウマを経験していたが、それでもニコニコと快活な子どものように見えた。
ロンとナタリーは、その後すぐ、養子縁組が思ったほど簡単にいかないことに気づく。というのも、カナダに連れて帰る以前に、ロディカには健康上の問題があったのだ。
ロディカは深刻な栄養失調
わずか1歳にして、ロディカはくる病を発症していた。くる病はビタミンD不足によって引き起こされる病気で、くる病を患う子どもは骨の形成が不良となる。つまり、骨がもろくて折れやすいのだ。
せめてもの救いは、くる病は治療できる病気ということだった。ロディカに必要なのは、太陽の光とビタミンDのサプリだ。ただ、ロディカの骨がもろくて折れやすいため、くる病が治るまでは本人が満足するほど十分に遊ばせてやることはできない。
くる病を発症しているのはロディカだけではなかった
非常に悲しいことだが、ルーマニアの孤児院でくる病を発症していたのはロディカだけではなく、そして、親に捨てられた孤児もロディカだけではなかったのだ。1990年代、ルーマニアは独裁者ニコラエ・チャウシェスクの政権下にあり、いかなる人工妊娠中絶も禁止されていた。そして、想像に難くないことに、この政策は大失敗に終わっている。
当時、チャウシェスクの政策のために、子どもを世話する手段を持たない人達も妊娠し、出産する他なかったのだ。そして結局、こうした望まれない子ども達は、国中の孤児院に送られることとなっていた。
孤児ら、十分な食糧などなく…
ルーマニアでは当時、国民にさえ十分な食糧が行き渡っていなかった。そのため、子ども達の面倒をみることもできず、望まれない子ども達は養子に出されるほかなかった。それでも孤児院に引き取られた子はマシなほうで、まだ幼いにもかかわらず、自力で何とか生き延びなければならない子ども達も多かった。
つまり、孤児院に引き取られたロディカはラッキーだったと言える。子どもの面倒を見ることのできる外国人夫婦に養子として引き取られる機会が与えられていたのだから。
ロンとナタリー、答えがほしい
ロンとナタリーは、ロディカをすでに自分達の娘のように感じていた。こうして出会うことができたのも、何か理由があるからだと思った。そして、娘が大きくなって聞かれたときに備えて、生い立ちについてもう少し詳しく知っておきたいと思った。
2人は、ロディカには自分の生みの母親や、どうしてルーマニアの孤児院に送られることになったのか、本当の理由を知る権利があると考えていたのだ。
さぁ、調査を開始しよう
ロンとナタリーは、ロディカの生い立ちについてもっと知りたいと思い、調べ始めた。だがすぐに、探している情報を入手するのがほぼ不可能であることに気づく。
というのも、孤児院のスタッフは誰も、正確かつ最新の情報を持っていなかったのだ。書類がきちんと存在しているのかどうかも定かではなかった。そのため、孤児院に頼らず、自分達で調べ始めることにした。
この写真の少女は誰?
当時は今ほどインターネットが普及していなかったため、調べるのはとても骨の折れる作業だった。グーグルでロディカの名前を入力したり、フェイスブックで生みの母の名前を探すことなどできなかったのだから。
しかし、2人は何とかルーマニアにいるロディカの家族を見つけることに成功した。そして、その労力が報われることとなる。驚くべきことに、ロディカの生みの母はロディカ以外にも子どもを産んでおり、養子に出していたのだ。
ロディカには姉がいた
ロンとナタリーは、ロディカの生みの母がロディカの前にも子どもを産んでおり、その子も孤児院に引き取られていたことを確認した。姉となるその子は他の都市の孤児院に送られていたため、互いのことを知らなかったのだ。
ロンとナタリーは、この時点でロディカの姉を探しだそうと考えていた。この少女らが家族として同じような体験を共有することが、どれほど意味のあることになるだろうかと、2人は考えていたのだ。
ロンとナタリー、ジャニナを見つけ出す
ロディカに姉がいたと知ったときから、ロンとナタリーは姉も一緒に引き取りたいと考えていた。そこで、ルーマニア中の孤児院に連絡し、姉のジャニナを見つけ出すことに成功した。
2人は見つけ出した姉がロディカによく似ていることに驚く。実際、ジャニナとロディカは双子のようにそっくりだった。トレクローチェ家はこの2人を迎え、4人家族となった。これ以上はないほど、最高に幸せだった。
驚きは、まだ続く
家族みんなでカナダに帰国した後、ロンとナタリーは、この姉妹についてさらに驚きの発見をする。どうやら、この姉妹には他にも兄弟が6人もいたのだ。ロンとナタリーは、ジャニナを見つけ出すだけでもクタクタになっていたのに、さらに6人も探し出せるとは到底思えなかった。
その上、たとえ残りの6人を養子にしたいと考えたとしても、ルーマニアできちんとした書類がないのに、兄弟らを見つけ出すのは不可能だと思ったのだ。
カナダの生活に慣れる
ロンとナタリーは、他の6人を見つけることができない重い事実を受け止め、すでに手元に引き取っていたかわいい姉妹の世話を全力でしようと決断した。
また、ロンとナタリーは、ジャニナとロディカの名前をソフィアと、ダニエルに変えた。新しい国で、新しい生活を新しい名前で始めることにしたのだ。それでもナタリーは、完全に心が休まったようには感じられなかった。
過去の一部を残す
ロンとナタリーは、カナダに来る前の2人の過去をすべて消し去るようなことはしたくなかった。ルーマニアでの過去があってこその今があると考え、ルーマニアでの名前を完全に消したくはなかったのだ。
そのため、ロンとナタリーは、それぞれのルーマニアでの名前をミドルネームに残すことに決めた。ジャニナは、ソフィア・ジャニナ・トレクローチェ、ロディカは、ダニエル・ロディカ・トレクローチェとなった。
多くの人に感銘を与えた
ソフィアとダニエルについて知った人々は、もっと2人について知りたがった。生まれてから別々に引き離された姉妹が、その後世界のほぼ反対側でまた家族になるなんて、滅多にあることではないからだ。
とあるドキュメンタリー映画の監督はこの姉妹の話に興味を示し、これを映画化した。映画化することによって、もっと多くの人に知ってほしい、そしてこうした夫婦の決断にインスピレーションを受けてほしいと考えたためだ。
姉妹は大きくなってから映画を見た
ソフィアは大きくなってから、この映画監督が制作したドキュメンタリーを実際に見た。自分の人生が映画になったことを嬉しく思い、YouTubeにアップロードできるように映画の一部を短く編集した。
ソフィアが投稿した元々の動画は現在YouTubeから削除されているが、削除される前に何千人もの人が視聴した。この映画の編集版は他にもあり、まだYouTubeで見ることができるものもある。
現在、成人したソフィア
ソフィアがYouTubeにアップロードした動画は、多くの人から関心を集めることとなった。そして、多くの人に視聴されたことに影響を受けたソフィアは、写真撮影について学びたいと考えるようになる。ソフィアは大学で写真学を専攻することを決意し、さらにドキュメンタリー映画を見たことで、自身の家族についてもっと知りたいと思うようになった。
その後、自身の生い立ちについて調べるために、ソフィアはルーマニアへと行くことにした。生みの母を見つけることができるとは考えていなかったが、自身が生まれた国を見に行くだけでも十分だと思っていた。
ダニエルも大学へと進む
ロンとナタリーの愛情と支援を受け、ダニエルもソフィアと同じように、健康で賢く、信念を持つ女性に成長していた。ダニエルはソフィアと近くに住めるよう、ソフィアの大学と近いところにある大学に行き、学士号を取得している。
さらに、ソフィアと同じように自分のルーツや家族について調べようと思ったダニエルは、ソフィアのルーマニア旅行に同行している。
1つの幸せな家族
ロンとナタリーが養子を求めて初めてルーマニアに行ったとき、2人の子ども達を連れて帰ってくることになろうとは予想だにしていなかった。新しく家族をつくることは簡単ではないと知っていたものの、インターネットやきちんとした書類なしに、ルーマニアで1人の幼児について調べることがどれほど難しいか、まったく知る由もなかった。
しかし、2人が費やした努力は報われている。姉妹揃って引き取ったことで、この家族はみんながハッピーエンドを迎えているのだから。
サラとアンディーは仲睦じい夫婦だった
オクラホマ州タルサに住むサラとアンディー・ジャスティスは、のどかな生活を送っていた。結婚してから3年、そろそろ赤ちゃんを家族に迎え、2人だけだった家族を大きくしたいと考えていた。
結婚して数年たった他の夫婦と同様に、ジャスティス家にとっても赤ちゃんを授かることが次のステップだった。結婚後数年間で相手のことをより深く理解し、愛を育んできた今、新たな生命をこの世に誕生させ、2人で愛情を注いでいきたいと思うのは自然なことだった。しかし残念ながら、ジャスティス家には、別の運命の計画を用意していたようだ。
結婚から3年後、何かが欠けていると感じる
ジャスティス家の2人は、3年間ほど幸せに暮らしていたものの、何かが足らないと感じるようになっていた。当然次のステップは赤ちゃんを迎えることだが、サラにとって、それは簡単なことではないようだった。
近年、多くの女性がそうであるように、サラもまた、なかなか赤ちゃんを授かることができなかった。サラは、夫と3年間、妊娠を試みてきたものの、成功しなかった。妊娠を望んで努力し続けたにもかかわらず、結果が実らないことで、夫婦はかなり参ってしまっていたのだ。更には、結婚生活までもギクシャクし始めた為、2人は他の選択肢も視野に入れることにした。そう、不妊治療専門医にかかることを決意するのだ。
不妊治療のために遠くの医者にかかることを決意
サラとアンディーはどうにか子どもを授かれないものかと、不妊治療専門医を探すことに決めた。実際、妊娠できないのはどちらのせいでもなかったが、とりわけ2人の結婚生活を健全に保つためにも、専門医の助けを求めることが最良の選択肢だと思われた。
不妊治療専門医を探し始めた彼らにとって、唯一の問題は、タルサには不妊治療を専門とする評判の良い医者がいないことだった。そのため、2人はタルサ以外の場所で探さなければならなかったが、タルサから一番近いとされる専門医でさえ、遠く離れたミズーリ州のセントルイスにいることが分かった。不便ではあるが、神様から素晴らしい贈り物を受け取ることができるかもしれないと思うと、移動の苦労は大した問題にはならなかった。
6時間の長距離運転、それでも結果は得られず
2014年、ジャスティス家の2人はタルサにある小さな家から遠く離れた大都市、セントルイスに向かった。高速道路を6時間運転しなければならない道のりは非常に長く感じられたが、それでもサラに必要な不妊治療を受けるためにはしなければならなかったのだ。
セントルイスに着くとすぐに、2人が見つけた専門医の指示に従ってサラは治療を受けた。しかしその後、2人は悪い知らせを受け取ることとなる。最初の治療はうまくいかなかったのだ。2人はひどく落ち込んだ。しかし、赤ちゃんを授かると決意したのだから、ここであきらめるわけにはいかなかった。依然として、他の選択肢も検討し続けた。
サラとアンディー、体外受精を検討する
サラとアンディーは不妊治療の選択肢の1つとして、体外受精について尋ねた。担当医師は、2人とも体外受精をするのに適格ではあるものの、それでも体外受精によって妊娠する可能性はほんの10%だと告げた。
妊娠する可能性がほんの10%であるにもかかわらず、サラは過酷な治療を受けなければならなかった。体外受精の治療は、生体内を傷つける可能性もある。また、サラは卵巣から卵子を採取するにあたって、数ヶ月も前からホルモン治療を受けなければならなかった。こうした治療すべてを終えた後にも、もしかしたら受精卵が着床しないかもしれない可能性があると思うと、2人は何だかスッキリしない気持ちなのだった。
体外受精はリスクが高いことが明らかに
体外受精のプロセスには、甚大な費用がかかる。この革新的な不妊治療は決して安くはない。基本的なIVF(体外受精)サイクルには、およそ1.2万ドル~1.5万ドルかかると言われている。さらに、この方法が上手くいかないとなると、リスクはより大きなものとなる。
その上、IVF治療は保険が適用されない。ジャスティス家の2人が体外受精で妊娠したければ、その費用は最大で6万ドルにまでのぼることがある、と見積もられていた。べらぼうに高い費用であるにもかかわらず、着床がうまくいく可能性がわずかであることから、2人はすぐに決断することができないでいた。また、2人には他の選択肢もあったのだ。
ジャスティス家、養子縁組を検討する
サラとアンディーは、次に養子縁組の選択肢を検討し始めた。数年間も妊娠に成功しなかったこと、さらに不妊治療の専門医に体外受精でも成功する可能性が低いと告げられたことから、この時点で、どんな方法によっても2人は子どもを迎え、親になりたいと考えていた。
そのため、サラとアンディーは養子縁組の手続きを始めた。もし、養子縁組の手続きをしたことがあれば、その手続き自体が非常に厄介で手間がかかることはお分かりだろう。子どもを家に連れて帰ることが許可される前に、親候補者は長い長い申請手順に従わなければならない。これには候補者らの生活だけでなく、子どもを迎えるのにふさわしいかなど、生活状況の確認も含まれている。
養子縁組手続きも、簡単ではない
養子縁組手続きは手間と時間がかかる。特に、新生児を養子にしようとしている場合には、何年もかかることがある。しかし、アンディーとサラは親になるのだと心に決めていた。そのためなら何でもするつもりだった。
しかしながら、養子縁組手続きを開始した後、アンディーとサラは他にも問題にぶち当たった。2人は自分達の家族に赤ちゃんを迎えたいだけなのに、それを実現するにはまだまだ多くの苦難を乗り越えなければならないようだった。
養子縁組のための長い手続き
養子縁組申請を提出し、受理された後、養子縁組斡旋業者によってジャスティス家は家庭を評価された。この家族が子どもを迎え、育てるのに適しているかどうかを確かめなければならないからだ。しかし、その手続きにおいて最大の難関は面接と言えるだろう。
中にはこの面接で心配になってしまう人もいるだろうが、ジャスティス家の2人にとっては、この苦しい試練の間中冷静さを保ち、明確な判断を下すためにも、この面接は必要だった。この後、養子縁組斡旋業者はジャスティス家のために、子どもを養子に出すと決意している生みの母との面接を予定し始めた。しかし、このプロセスもまた簡単ではなかった。
やっと選ばれたのに、事態は悪い方向へ
表向きには、ジャスティス家は広範囲に及ぶ面接手順を進めているように見えた。そして、ついに良い知らせが舞い込んできたのだ。面接した女性のうち、1人がジャスティス家を子どもの養子縁組先に選んだというものだった。
サラとアンディーは心から喜んだ。ついに、天に祈りが届いたのだ。家族として子どもを育てるという夢にやっと一歩近づいた。2人はこの生みの母を妊娠期間中ずっと支え続け、赤ちゃんを家に迎えられるように準備を進めていた。しかし、出産が近づくにつれ、事態は悪い方向へと向かう。
誰も3つ子だとは思わなかった
サラとアンディーだけでなく、生みの母である女性も、超音波検査のモニターで3つの心臓が動いている様子を見て、大きな衝撃を受けていた。サラとアンディーはこれまで長い間、赤ちゃんを1人でも授かろうと一生懸命に頑張ってきたが、なんと、神様は3人も2人のもとに送ってくださるのだ。
このとき、ジャスティス家の2人は、最初からずっとこうなることが決まっていたのだと悟った。3人も子どもを養子にとろうとは夢にも思っていなかったが、この3つ子を見た瞬間、2人はこれが自分達に予定されていた運命だったことを知る。これから彼らに起こることにワクワクし、2人は養子縁組プロセスを早め、赤ちゃんを迎える準備を始めた。
3つ子は早生児だった
2013年5月、妊娠女性は破水し、予定日よりも8週間早かったが、分娩室に入った。サラとアンディーも病院へ急ぎ、不安ながらも赤ちゃんに会えるその瞬間を待った。数時間にも及んだ大変な出産の後、3人の小さな赤ちゃんが誕生した。
どの子の体重も3パウンドにも満たない小さい赤ん坊達だった。それぞれハンナ、ジョエル、エリザベスと名付けられた。ジャスティス家の2人はこの3つ子に会えることを楽しみにしていたが、この子達を家に連れて帰る前に乗り越えなければならない障害がもう一つ残っていた。そしてそれは、生みの母による問題ではない。
赤ちゃんの退院を待たなければならなかった
ハンナ、ジョエル、エリザベスの3人は予定日より8週間も早く生まれたため、低出生体重児だと診断された。これは初めて親になるサラとアンディーにとっては憂慮すべきことだが、前向きでいることに決めていた。何しろ、やっと、祈りが届いたのだから。
3つ子はジャスティス家が引き取れるくらいの大きさと健康状態になるまで、新生児集中治療室でしばらく入院しなければならなかった。日々、赤ちゃんは大きく、力強く育っていった。サラとアンディーは赤ちゃんを連れて帰れるその日まで、辛抱強く見守った。
3つ子を養子にとった直後、ついにサラが妊娠
医者はサラの具合が優れない理由を突き止めるべく、数々の検査を実施し、ついにその理由を突き止める。サラは病気ではなかった。サラの体調が優れないのは、妊娠していたことによるものだったのだ。そう、サラは妊娠していたのだ!
ジャスティス家の2人にとって、これは衝撃だった。なにしろ3つ子を養子として迎え入れたばかりだったのだから。もちろん、これは素晴らしいニュースだ。3つ子の新生児をお腹の大きな体で育てることは、すごく大変でストレスが大きいことになるだろうが、それでもサラはこの困難に立ち向かうことを決意する。この時点で、神様の祝福がここで終わらないことを誰も知る由もなかった。
新生児のお世話と妊娠を同時に体験
サラとアンディーはこの事態にストレスをためるよりもむしろ、ユーモアを見いだし、柔軟に対応していこうと決めた。結局のところ、何年もずっと子どもを授かる努力を続けてきたのだ。これは素晴らしい神様からの祝福に違いない。
3つ子をやっと家に連れて帰ることができたとき、2人はできることだけをした。そして今後も前に進み続けることに決めた。サラとアンディーは初めての妊娠と同時に3人の赤ちゃんを育てるというなかなかない経験をするのだ。それはまるで、神様がジャスティス家の2人の夢をかなえることを隠しておいたことと引き換えに、一気に願いを叶えてくれたかのようだった。
ジャスティス家の2人は5人の赤ちゃんを育てることになる
何年も何年も子どもを授かれないかと努力を続け、サラはついに自身が不妊ではないと分かった。サラとアンディーは養子縁組で子どもを引き取る選択肢をしたときから、自然と妊娠するために努力することを忘れていた。サラの妊娠は嬉しい驚きだったが、2人の物語はまだ終わりではなかった。
妊娠発覚から数ヶ月後、ジャスティス家の2人はお腹の中の赤ちゃんが双子であることを聞かされる。サラが双子を妊娠しているという知らせに2人は驚愕した。つまり、2人はこれから5人の赤ちゃんを育てることになるのだ。
1年も経たないうちに7人家族に
3つ子が1歳になる数ヶ月前、サラは分娩室に入った。長時間の分娩を経て、待望の双子、アンドリューとアビゲールを迎えた。今や、ジャスティス家は5人の可愛い赤ちゃんのいる7人家族となった。
ジャスティス家にとって、やっと人生は好転し始めたようだ。家族が増え、これから何が起こるのか、2人はとても楽しみにしていた。すでに3人の新生児を数ヶ月間育ててきていたため、2人の新生児が新たに加わっても、物事はスムーズにいくだろう。もちろん、長い間大人2人で暮らしてきたサラとアンディーにとっては、大きくライフスタイルを変えることにはなるだろうが。
まったく知らない人からも援助が
ジャスティス家の状況は奇跡とは言えないだろうか。この家族の状況について噂が広がると、たとえサラとアンディーとは知り合いではなくても、少しでも助けることができれば、と人々は考えるようだった。
サラとアンディーが復職し仕事をしている間、家族や友人は赤ちゃん達のベビーシッターをしようかと申し出てくれる一方で、オクラホマ中から援助が2人のもとに送られてきた。まったく知り合いでもない人から、オムツや哺乳瓶、服、毛布などがジャスティス家に送られた。5人の赤ちゃんを育てるため、ジャスティス家には一週間に200枚以上のオムツに、少なくとも84本分のミルクが必要だろうと見積もられた。
赤ちゃんの見分けをつけるために
サラとアンディーが5人の赤ちゃんを育てるにあたって、絶対に変えなければならなかったことがあった。それは自分達の毎日の生活を赤ちゃん中心に考えて予定を立てることだった。そして、みんなを乗せるために大きな車を購入した。
ジャスティス家の2人にとって最も難しかったことは、赤ちゃんを見分けることだった。サラとアンディーは、赤ちゃんの足の爪にそれぞれ違う色を塗って見分けがつくようにした。これは赤ちゃんがそれぞれ大きくなり、個性を出すようになるまで続けられた。
サラが再び妊娠!
ジャスティス家の2人の物語がSNSなどで広がっていったとき、3つ子と双子はそれぞれ幼児になっていた。しかし、再び大きなニュースがこの家族に訪れる。それもまた、家族みんなの生活を変えてしまうものだった。
サラが再び妊娠したのだ!このニュースはジャスティス家の2人をとんでもなく参らせるかのように思われるが、サラとアンディーはこのニュースに喜び、冷静に受け止めた。一度に5人の赤ちゃんを育てた後なら、新生児の1人くらい、どうってことないのかもしれない。サラは6人目の男の子を2016年に出産した。Today誌によると、彼女は「この子達がいてくれて本当に嬉しいです」と喜んでいたという。