海賊と言えば、『パイレーツ・オブ・カリビアン』のキャラクターや黒髭のイメージを思い浮かべるでしょう。彼らの向こう見ずな、ならず者のイメージは完全に間違っているわけではありませんが、それは海賊の実態のほんの一部でしかありません。また、実際には、地道な作業も多く花々しいとも言えません。彼らは、おとぎ話の登場人物ではなく、実在した人物なのです。ということで、今回は海賊にまつわるおもしろい事実や習慣をご紹介しましょう!
耳から蝋を垂らしているのは保護目的
ほぼすべての海賊船がたくさんの大砲をのせています。そうでもしないと、海賊として長くは生き延びれないためです。黒鬚の「アン女王の復讐号」が手ごわかったのもこれが理由です。船には40もの大砲がつまれていました。
しかし、大砲は音が大きすぎるために、耳の鼓膜を破ってしまうんです。そのため、海賊の多くはイヤリングから蝋の塊を下げています。大砲を撃つ準備ができたら、これを耳に入れて即席の耳栓として使用します。
死後も役目を果たすイヤリング
海上でかなりの時間を過ごすため、遺体が「デイヴィ・ジョーンズの監獄」として知られる海の底に行きつくことも珍しくありません。海賊は、きちんとしたお葬式の費用の支払いのための保険としてイヤリングを利用していました。
銀でも金でも、遺体が打ち上げられた際には棺やその他の葬式の必需品の支払いにこれらが当てられます。海賊によっては、誰かが故郷まで遺体を運んでくれる望みを託して、故郷名をイヤリングに彫り込みます。
人質は人気の「通貨」
海賊は船内で殺しを行うことで知られていますが、人質を取る場合もあります。この場合、身代金目的でプロセスの中で利益を得ます。最も有名な海賊の人質は紀元前75年につかまったユリウス・カエサルです。
カエサルを人質に取ったのち、海賊たちは20タレントの身代金を要求します。これに対し、「自分の価値は50タレントはくだらない」とカエサルは主張して笑い飛ばしました。身代金が支払われたのち、カエサルは海賊たちを磔の刑にかけています。
すべての海賊が片目なわけではない
海賊の中には確かに眼球を持たない人はいるものの、眼帯をしている全員が片目なわけではありません。眼帯をすることで、海賊たちは暗闇に目を慣らして、デッキの下や夜間でも物がはっきり見えるように備えています。
明るいデッキの上から、下の暗闇に移動する際に役立ちます。特に、奇襲中や自分の船の防衛の際に便利です。眼帯を外せば、あまり光がなくてもよく見えます。
壊血病を避けるためにお酒を飲む
グロッグというカクテルを発明したのは、1600年代のイギリス海軍。藻類や他の微生物によって汚染された水を飲まないために、海軍たちは水にラム酒を混ぜるようになりました。
1731年までには、イギリス海軍は1日に決まった量(ショット5杯分に相当)のラム酒の摂取を船員たちに許すようになっていました。海賊たちはシンプル版のグロッグのレシピを導入し、壊血病の防止のためにレモンジュース、味を付けるために砂糖を追加していました。
海賊のクルーは小さな民主主義社会
アメリカ建国の何百年も前、海賊船は小さな民主主義社会として機能していました。殆どのキャプテンはクルーによる投票で選出されていて、その地位が別の人に奪われることもあり得ます。すべてのクルーメンバーがほぼ同じくらいの配給を受けていたため、キャプテンの配給は最も地位の低いメンバーと比べても1~3倍ほどしかありませんでした。
しかし、海賊たちは船長の選出のためだけに投票を行うわけではありません。どこへ向かうべきか、何を盗むべきか、乗客をどうするべきか、勇敢な行為をどう讃えるべきか・・・たくさんのことを投票で決めていました。海賊のクルーが効率的なのは、すべての船員の意見は同等に扱われていたことが関係しているのかもしれません。
女性の海賊も存在
貢献できるのであれば、海賊の生活にジェンダーは関係ありません。1970年代、海賊船「リベンジ号」で航海していた2人の女性、アン・ボニーとメアリ・リード。アンに至っては一等航海士の地位についていました。メアリを含む他の女性は、自分の正体を守るために男性のような服装で男性のようにふるまっていたそうです。
どちらの女性も捕まって投獄されていますが、アンは船長であるキャラコ・ジャックを責めました。「アンタが捕まったのは残念だけど、男らしく戦っていたら犬のように絞首刑にされるようなことはなかったでしょ」(アン)
お宝を埋めるというのは誤った認識
海賊に関するよくある思い込みのひとつに、お宝を埋めるというものがあります。記録上お宝を埋めたとされる唯一の海賊は、ロング・アイランドで亡くなったウィリアム・キッドのみです。しかしウィリアムの作戦は裏目に出て、海賊活動の証拠として利用されました。
海賊がお宝を埋めない理由は、盗んだ戦利品の殆どが金や貴金属ではなかったためです。食べ物、水、アルコール、武器、服、その他必要品などを奪っていました。埋めたところでお金にはなりません。必要ないものは出来るだけすぎに売却していたようです。
板の上を歩く拷問はそれほどよくあることではない?
心理的な拷問として海賊が板を利用していたという証拠はあるものの、広く広まっていたわけではなさそうです。この概念は、エンタメ界や海賊への関心の高まりの中で人気を得ていきました。最もよくある拷問による死は海軍刑と呼ばれるもので、木の板の上を歩くより断然ひどい方法です。
被害者はボートの下に引きずりこまれ、ボートの反対側から引き揚げられます。それから脚に重しをつけられ、おぼれ死ぬまで船に引っ張られます。
様々なバージョンがある海賊旗
最も有名なものは、黒い背景に白い骸骨とクロスした骨が描かれた海賊旗です。しかし、これにはいくつかのバージョンが存在します。初めて登場登場したのは、チャールズ・ジョンソンによる1724年発売の本、『海賊史』です。他の海賊旗は船長よって左右されます。
例えば黒鬚の旗は、流血した心臓を串刺しにつつ悪魔と乾杯を交わす骸骨です。他の一般的な旗には、砂時計、骸骨、スカル、人間などが描かれています。「正しい」海賊旗というものはありません。
「赤旗」に注意
海賊旗は、敵を怯えさせる目的で多くの海賊船が掲げていた旗です。しかし、海賊船が赤旗を掲げでいたら、これも心配をしたほうが良さそうです。
赤旗は「情け容赦なし」を象徴します。つまり、捕らえたら最後、船に乗っているすべての人間に容赦せず、全員殺すということです。この旗は、「ブラッディ・レッド」と呼ばれており、捕虜にされることを恐れた船乗りたちは、自ら船を乗り捨て海に身を投げることすらあったそうです。
各船に独自のルール
ほとんどの海賊は似通った生活をしていますが、どの船も独自のルールや習慣的な原則を持っており、乗組員は何があってもこれに従わなくてはいけません。お宝の山分け方法、日々のタスクの行い方、一連の命令などです。
これらのルールを破ると、深刻な罰、最悪の場合死刑判決を受けることになります。殆どどの海賊船でも導入されているルールのひとつは、「自分たちの船の上での争い禁止」です。クルー同士の争いは、すべて陸地で解決しなくてはいけません。
必ずしも大きくはない海賊船
ポップカルチャーの中では、海賊船はどんな船にも引けを取らない巨大な船舶として描かれています。エンタメ界ではこれでもよいのかもしれませんが、実際の海賊船はたくさんの武器を積み込んだ小さく機動力の高い船でした。
小さなサイズとスピードを生かして他の船より巧みに移動することができたため、手ごわく逃れることは困難です。さらに、狭い海峡や大型船に隠れて、奇襲攻撃をかけることもありました。
実際にあった置き去り刑
海賊に関するすべての都市伝説が真実というわけではありませんが、ルールを破った人や、船上で問題を起こした人を置き去りにするということは実際にありました。大抵、服、少量の飲み水、武器と一緒に無人島に置き去りにされます。
もしその気になれば自殺できるように武器を与えられますが、これは腰抜けのすることだと考えられていました。置き去りにされたものの生き延びたり他の海賊に助けられた者もいますが、こういった幸運はまれだったようです。
組織立っている
海賊は、自分のことしか考えない血に飢えた無法者のように見えるかもしれません。しかし必ずしもそうではありません。実は、一般に考えられているよりも洗練された組織立ったグループでした。
例を挙げてみると、海賊が利き腕または利き足をなくした場合、その保証としてより多くの戦利品を受け取ります。負傷した人は送り返されることがなく、ベテランとして称されて敬意を払われます。
海賊のピアス
蝋や葬式のための資金を隠す場所としてだけでなく、海賊の耳飾りに関しては様々な憶測が飛び交っています。特にフープ型のものは、超自然現象的な力を持っていると信じられていました。
とある逸話によれば、金のフープは船酔いを防止する力があり、別の説によれば視力を回復してくれます。海賊の中には「このフープがあれば溺れることがない」と信じていた人もいるようですが、残念ながらそのような事実はありません。
専門用語が豊富
何百年も前に海賊が話しているところを聞く機会があったら、おそらく何の話をしているか皆目見当もつかないでしょう。みなさんが全く知らないようなことを話しているか、自分達だけの専門用語を使用していることが理由です。
ただ、「コツをつかむ」を意味する「learning the ropes」、「泥酔している」という意の「three sheets to the wind」と言ったようなフレーズのいくつかは、今でも英語圏で使用されています。
海賊の拠点
ジャマイカのポート・ロイヤルは、1518年に設立され、かつてはカリブ海最大の都市でした。保護された港、汚職政治家や市民の街で、海賊たちは好き勝手することができていたのです。街の4つに1つのビルが、酒場か猥褻なサービスを提供する場所だったとされています。
ポート・ロイヤルは、海賊たちが自分達の欲望を満たしながら、一生懸命盗んだお金で豪遊する無法地帯でした。とある歴史家によれば、「ワインと女性で富を使い果たし、短期間で物乞いへと転落していった者も複数いました」。
暴力を好むわけではない
海賊は、拷問、殺し、敵に恐怖を植え付ける方法を熟知しています。クルーを皆殺しにしたり、情報のために永遠と拷問をしていたりすることもありました。しかし、だからと言ってこれらの行為を楽しんでいたわけではありません。容赦ない海賊もいたものの、戦いや暴力は必ずしもベストな選択肢ではありませんでした。
海賊のクルーは、乗組員を失ったり、船に損傷を受けたり、殺されたりするリスクを負うより、抵抗なく強奪することを好みます。また、戦いを引き起こすことで政府にとっての大きな標的になってしまうため、つかまる可能性が高まります。そのため、暴力で対抗する意味はそれほどありません。
同性結婚
狭い船という空間の中で他の男性に囲まれていることが多いため、海賊同士で親密な関係になることも珍しくありません。場合によっては、海賊のあいさつの「アホイ メイト」と関連していると思われるフランス語の「マトロタージュ(matelotage)」を行っていました。
男性の海賊2人がマトロタージュを行うと、婚姻関係同様に扱われ、分け前を共有し、片方が先に死亡した場合には死亡給付を受けることが可能です。さらに、生活を共にし、指輪を交換して、パートナーをシェアしていました。
海賊の労災
海賊は残忍性で有名なものの、仲間のクルーを丁重に扱っていました。多くの船長は、航海中に受けた怪我に対して労災を支払っていたとされています。実際、歴史上最初に労災制度を導入したのは海賊コミュニティーです。
支払い額は怪我の深刻度によって決まります。目や肢体を失った人は、より多くの金額を得ます。現代の退役軍人のように、ケガを負った海賊たちはかなり勇敢であると考えられていました。士気を高めて他の船乗りの仕事よりメリットが多いため、補償金によってクルーの絆も深まったとされています。
誰もがチンピラというわけではない
多くの海賊が下層社会階級出身であるものの、全員がそうだったわけではありません。ウィリアム・キッドのような上層階級出身者の多くが、富を得る機会として海賊の生活に魅了されました。海上の生活は自由で、多くの場合は全てのクルーに平等に支払いが行われます。
さらに海賊行為は、労働階級のカウンターカルチャーを象徴しています。多くの海賊は元商船の船乗りか奉公人です。海賊行為によって死を免れただけでなく、独立とより高い給与を実現していたのです。
海賊の訛りはひとつだけではない
ポップカルチャーにおける「海賊訛り」は、『宝島』のロバート・ニュートンの演技に使用されているものであると考えられています。しかし、彼の訛りは歴史的に言えば正しくありません。海賊行為の黄金期の海賊たちのアクセントには様々なバリエーションがありました。アイルランド訛り、スコットランド訛り、ギリシャ訛り、オランダ訛りなどです。
歴史家のコリン・ウッダードによれば、海賊の話し方に関する資料はほとんど残されていません(『ナショナルジオグラフィック』)。多くの資料は、他の海賊とは話し方が異なる、教育を受けた上流階級の元海賊たちのものです。ウッダードは、「海賊のステレオタイプを生み出したのはニュートンの演技である」、と説明しています。
海賊自体は「パイレーツ」という言葉を使用していなかった
「海賊」を意味する「パイレーツ」という単語は、海の強盗を意味するラテン語の「pirata」から来ています。ギリシャ語の「peirates」は、そのまま「船を攻撃する人」を意味します。17世紀から18世紀の間に、人びとは現代的な「パイレーツ」という名称を使用するようになりました。それ以前は「pyrates」、「pyrats」、「pirrots」などの呼び方も使用されています。
パイレーツという用語が初めて使用されるようになったのは、1300年代頃です。ただし、現代的なスペルの「pirate」が一般化するのは、18世紀に入ってからです。海賊の黄金期の前、海賊たちは中世時代にスラブ侵略を通じてその評判を得ていきました。
オールに要注意
海賊狩りの際、多くはオール付きの船を利用していました。これらの低い船舶は素早く目立たないため、こっそりと海賊船に近づくことができます。このようなデザインを初めて導入したのは、ジャマイカ在住の英国人たちです。
海賊狩り船は存在したもの、海賊たちは1720年代までは特にこれらの船を恐れてはいませんでした。その後、カリブ海で特定のオール付きの船に警戒するようになります。英国人たちが、海賊に追いつくことが可能な下方デッキ部分にオールを備えたハイブリット船を導入し始めたのです。
実際にあった海賊の掟
海賊には独自の海賊の掟があります。これらの決まりは船によって異なりますが、ほとんどの掟が複数の考えを反映しています。当時、これらのルールは、カスタム・オブ・コースト、チャーター・パーティー、チェイスパーティー、ジャマイカ・ディシプリンなどの名前で呼ばれていました。これらすべてが海賊の掟にあたります。
旅に繰り出す前に、すべてのクルーメンバーはこれらの掟を尊重することを示すために何かに署名をしなくてはいけません。剣、聖書、斧、大砲などです。多くはサインをして、拷問や死を恐れ最後までルールに従っていました。
私掠船とほとんど変わらない海賊
私掠船は、いわば「公式」の海賊です。彼らは政府からコミッションを得て軍事活動を行う個人です。正確に言えば、海賊と同じような罪を犯します。強奪、村の破壊、敵の殺しなど。ただ、彼らの行いは全て合法です。
最も悪名高い私掠船は、スペインの植民地を略奪して富を築いたフランシス・ドレークでしょう。私掠船は後ろ暗いビジネスでした。軍事活動よりも多くの資金が投入され、多数の軍人は軍を離れて私掠活動を行うようになっていたほどです。活動的には海賊にそっくりですよね?
海賊が船を盗む理由
船を買うだけの資金がないため、多くの海賊は船を盗みます。大きな船は気づかれずに盗むことが困難なため、殆どは小さな船をハイジャックしました。一度船を手にしたら、たくさんの貨物と富を運ぶ船を襲うことに集中できます。
船を盗んだ海賊は、すぐに船を海賊船に改造します。自分達の旗を掲げて、大砲を積めるようにデッキを強化。多くのポップカルチャーの海賊船はガレオン船に類似していますが、実際の海賊船の見た目は異なります。多くは短く素早いガレー船でした。
規模が大きい海賊クルー
海賊は小さな船で航海していたものの、1隻ごとに最大80人の乗組員をのせていました。比較で言うと、英国の船はサイズが大きいにもかかわらず、最大30名しか乗船していません。さらに、海賊が海軍艦艇で航海することはほとんどありませんでした。有名なキャラコ・ジャックが海賊活動に利用していたのは改造漁業船です。
海賊たちは80名までの船乗りをのせることができるものの、大抵の船には15~25名の乗組員のみが乗船していました。サミュエル・ベラミーは一度90名のクルーを率いていたことがあり、キャラコ・ジャックはキャリアの中で100名ほどの船乗りと仕事をしていたとされています。
金と銀を収集することはほぼなし
海賊は宝石、金、銀を盗むことはほとんどありませんでした(もちろん機会があれば逃しません)。殆どの海賊のお宝は船の必需品です。ろうそく、フライパン、石鹸、木材など。食料の補給には漁業船を襲っていました。船が修理できなくなると、漁業船ごと奪ってしまうこともあります!
ほとんどの海賊の富は、奴隷貿易から生まれます。奴隷船を襲って、奴隷を後で売りさばきます。商船の場合、海賊は砂糖、スパイス、カカオ、たばこ、綿、動物の毛皮などを奪い、別の商人に転売しました。
船長は船の操縦をしない
海賊船では、船長は船を操縦しません。船長は襲撃を指揮する戦いのリーダーです。そのため、キャプテンは剣術や銃の扱いに長けていなければいけません。船の操縦は別のクルーが担当します。
海賊船には一等航海士を持たないことが多く、補給仕官が乗船しています。補給仕官は船長の右腕として機能して、船長が不在の際に指揮を執ります。海賊船によっては、他の船の航海長が無理矢理クルーとして加えられ、操縦を担当していました。
宝の地図を書くことはない
歴史的に、海賊は自分達の宝の地図を描くようなことはしていません。海賊たちは、他の海賊に盗まれる前にお宝をすぐに使い切ってしまうことを好んでいたのです。しばらくして海賊の地図を発見したと豪語する人達が現れましたが、学者による裏付けはとれていません。
多くの海賊に関する思い込み同様、お宝の地図の概念はロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』が発売されてから人気になりました。しかし、海賊のお宝のうわさは未だに出回っています。最も有名なものは、2億ドル(およそ200億円)の価値があるとされる「リマの財宝」です。
海軍が恐れていた海賊
歴史上、海軍が恐れていた海賊は存在します。中でも有名だったのが、「フライング・ギャング」です。1714年に結成された同グループは、1718年までには海軍が絶対出くわしたくないと恐れる存在に成長していました。フライング・ギャングはアメリカの海軍の船を盗んで、海軍の3倍の乗組員を率いていたとされています。
フライング・ギャングには、歴史上最も有名な海賊も所属していました。黒鬚、メアリ・リード、アン・ボニー、スティード・ボネット、キャラコ・ジャックなどです。ジャック・スパロウや『パイレーツ・オブ・カリビアン』のクルーたちはこのギャングからインスパイアを受けています。
デイヴィ・ジョーンズは船乗りにとっての悪魔
デイヴィ・ジョーンズとは一体誰なのか、と気になったことはありませんか?報告によれば、「デイヴィ・ジョーンズ」とは船乗りの悪魔の名前です。「デイヴィ・ジョーンズの監獄」という表現は、「海の底」を意味します。これは、難破しておぼれ死ぬことの婉曲表現として使用されるようになりました。
この名前の由来ははっきりしていませんが、最も初期の「デイヴィ・ジョーンズの監獄」という表現の使用は、1700年代までさかのぼります。トバイアス・スモレットの『ペレグリン・ピックルの冒険』中の「デイヴィ・ジョーンズ」の説明によれば、ジョーンズは3列に並んだ歯、角、しっぽを持ち、鼻の穴から青い煙が立ち上っています。
海賊は仲間から盗まない
海賊は、生活するために他の船から盗みを働きます。しかし、ほとんどの海賊の掟によれば、仲間の海賊から盗んだ場合、厳しく罰せられていたようです。場合によっては仲間から盗んだ海賊は置き去り刑となり、無人島に取り残され亡くなりました。
似たような罰は、船を見捨てたクルーにも課されます。ジョージ・ラウザが制定した条項によれば、どの罰がふさわしいか決めるのは船長と補給仕官です。どんな場合でも、道徳的な掟により、裏切りは厳しく罰せられます。
怖がらせることが重要
海賊旗は他の船乗りを怖がらせるために海賊船に掲げられていました。この脅しは、戦わずに相手の船のクルーが降参することを促します。脅し戦法の利用で最も有名な海賊は、黒鬚として有名なエドワード・ティーチです。
報告によれば、黒鬚が掲げていたのは一般的な海賊旗ではありませんでした。角を生やした骸骨が心臓に槍を刺している旗です。さらに、黒鬚は鬚にヘンプを編みこんでこれを燃やし、あたかも鬚自体が燃えているような効果を演出していました。
初期の海賊は尊敬に値すると考えられてた?
海賊に関する初期の記録は、紀元前14世紀の地中海の海の民です。当時、古代ギリシャ人は海賊活動を尊敬に値する職業であると考えていました。海賊活動は広まり、ホメーロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』にも登場しています。
この時代、海賊たちは誘拐や人身売買を行っていました。海の民は村から女性や子供をさらって、奴隷貿易で売り飛ばしていたのです。古典古代が終わるころには、海賊行為が誇り高き職業であるという見方はなくなっていました。
水よりアルコール
常にお酒を飲んでいる典型的な海賊のイメージはまさにそのままです。船上では飲み水がすぐによどんでしまうため、海賊たちはアルコールやグロッグに頼っていました。これらの飲み物は水より長もちします。しかし、どちらかと言えば好きな時に飲酒をしていただけなようです。
カリブ海では、ラム酒が地元の定番になりました。船上での扱いが楽だということから、海賊たちは砂糖から蒸留したラム酒を購入していたようです。船長にとって、お酒を提供することでクルーの士気を高める意味があります。厳しいルールの船では、多くの船乗りがもはや常に飲酒状態でした。
戦略的に囚人をとる
海賊船に監獄がある理由とは何でしょうか?海賊たちは様々な理由から囚人を取ります。多くの場合、囚人たちは脅しの意味合いを持ちます。盗みを働く前に捕虜を取り敵に恐怖を植え付けて、あとで解放します。
別の場合では、敵に「降参」という選択肢を示すために囚人を取ります。身代金を取って囚人を解放することもあります。囚人を取って無理矢理クルーに参加させることもありました。大工、医師、航海士などが、このように海賊船の仲間入りしています。
長く続かない海賊生活
多くの海賊にとって、海での生活は長くは続きません。けがをしたり殺されたりするためです。クルーの中には医師がいたものの、物資と技術が足りずほとんどは回復しませんでした。最も長期に渡る海賊キャリアを築いたとされるバーソロミュー・ロバーツですら、3年間という短期間の活動に留まっています。
中国人の海賊、鄭一嫂も、最も長く輝かしいキャリアを築いた一人だとされています。1,800隻の船、80,000名以上の海賊を率いていた時期もありました。彼女が海賊として活躍したのは3年間。中国政府が恩赦を与えたため、「引退」という形を取った数少ない海賊です。