第2次世界大戦の混沌により、何千人ものパリ住民が自宅を離れ避難しました。1940年のドイツ侵攻後、住人たちは南へ向かい、軍占有エリアから逃れていったのです。運ぶことができない家具や他の家財道具は、戦争に翻弄されるパリに残していくしかありません。
マダム・ド・フロリアンも避難を強いられた不運な住人の1人でした。マダムは有名なソーシャライトの孫です。彼女の死後フロリアンの家族は、彼女のパリのアパートが手つかずのまま残っていて、知られざる過去を明かすヴィンテージの品々であふれていることを発見します。
サヨナラの時
1939年の9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦の緊張が高まります。フランスは危険が迫っていると予測し、多くの人が国から避難する準備をしていました。避難の必要性が明らかになったのは、1940年5月10日。ついに攻撃が開始したのです。
フランスの同盟国であるポーランドが侵攻されてすぐ、ドイツに宣戦布告をしていたフランス。敗北後、ドイツの乗っ取りを恐れた住民たちは国から逃げていきました。当時、マダムは20代前半だったとされています。
マダムの行方
この地図では、危険から逃れるためにフランス国民が避難を強いられた地域を示しています。1940年6月10日、フランス政府がこの地域から撤退。1940年6月14日から1944年8月25日まで同地域はドイツに占領されていました。
4年の間、まだこの地域に暮らしていた人々には厳しいルールが科されました。午後9時以降の外出禁止令、値段の高騰と供給の激減を引き起こした食料と衣服の配給などです。
運べるもののみ
マダム・ド・フロリアンと家族は、パリから慌てて避難する他の難民に続きました。家も家具もそのまま残していくしかありません。こちらの写真に写っているのは、当時の避難民たちの様子です。
最終的に、比較的軍が少なく供給源の多いフリーゾーンに行き着いたマダムたち。パリのアパートを捨て、ここを新たな拠点に構えました。そもそも、戦争によってパリではすべてが破壊されてしまう運命だったのです。
特別なアパート
マダムがこの古いアパートを手にしたのは偶然ではありません。アパートは祖母であるマルト・ド・フロリアンから受け継ぎました。祖母は20世紀初期にパリで有名だった人物です。当時のパリは、第2次世界大戦前の平和と繁栄に特徴づけられたベル・エポック全盛期でした。
マダムがアパートから避難した際、もちろんこれらの祖母の遺品は残していかざるを得なかったのです。
70年後
パリのアパートを去ってから数十年後、91歳で生涯の幕を閉じたマダム・ド・フロリアン。彼女の死後、家族は避難した後もずっとマダムがアパートの家賃を払い続けていたことを知ります。
元々はマルト・ド・フロリアンが暮らしていたアパートであることを考えれば、アパート内の品々は専門家に鑑定してもらう必要があるでしょう。このアパートの品の鑑定を託されたのは、競売人のオリビエ・ショーピン・ジョンヴリーです。鑑定の内容は、家族にとっても衝撃的なものでした。
セレブステータス
マダムの祖母であるマルトは、遊女として有名なソーシャライトでした。豪勢なパーティー、派手なライフスタイル、セレブステータスで知られていたのです。
研究者たちによって、マダム・ド・フロリアンはマチルド・ベルガルドとして生まれ、裁縫師として働いていたということが明らかになりました。2人の子供を出産したのち、女優となり経済的にも社会的にも地位を高めていきます。ドイツ侵攻の直前である1939年8月に亡くなり、アパートは孫娘であるマダムに託されました。
死が2人を分かつまで
祖母が豪勢なライフスタイルを送っていたことを考えれば、祖母の死後もマダムがアパートや家財を手放さずにいたことも納得がいきます。何が興味深いかというと、マダムは家賃を払い続けたこのアパートを生涯訪れることがなかったということです。
マダムはこの場所に家族を連れてくることさえしていません。だからこそ、遺された家族はアパートの中の様子を全く知らなかったのです。写真に写っているのは、アパートの実際の鍵と錠。ヴィンテージのアパートは鑑定士とそのチームが到着するまで、全く手つかずの状態になっていました。
アパートの中身
ダイニングルームの写真を見ると、アパートが放置された当時のそのままの状態を目にすることができます。家具は20世紀前半のもので、天井のデザインは現代のアパートに比べるとかなり複雑です。
家具同様に天井には細かいデザインが施されており、現代のシンプルなスタイルとは一線を画していると言えるでしょう。さらに、壁紙も今はあまり人気なデザインではありません。
深まる謎
退廃的な雰囲気は、用途不明のこちらの部屋にも見て取れます。暖炉から推測するにリビングとして使用されていたのかもしれません。しかし、この部屋にはソファがなく、様々なタイプの椅子が置かれているのみです。
さらに部屋の角には、寝室にあることが多い化粧台が置かれています。この部屋は使用用途が不明ですが、暖炉の上に飾られているデザインの細かい壺などのアンティークの品々であふれています。
驚くほどの細かいデザイン
写真の端には、贅沢品の数々が見て取れます。大きな鏡に目を向けてみると、上部の装飾はかなり凝っていて若干変色していることがわかるでしょう。
ガラスの表面に積もった埃のため、鏡は曇っているようにも見えます。小さな本棚には本や紙が積み上げられていて、誰かが慌てて探し物をしていたような形跡があります。
はがれ始めている壁
アパートがほぼ100年前のものであることを考慮すれば、まだ倒壊せずにいることだけでも驚きです。通常これだけの古い建物であれば、数年間にわたる広範囲のリモデルを行うことになるでしょう。このアパートでは、まだ金色のカーテンがそのまま残っています。掃除さえすれば、暖炉もおそらく問題なく機能しそうです。
ただ、ビンテージの雰囲気をそのまま残しているとはいえ、安全に機能するためには広範囲の修繕が必要になってくるでしょう。写真を見ればわかる通り、壁紙は剥がれ落ちてきて修理が必要です。
思い出であふれかえる場所
荷造りを試みたかのように、家具はすべてまとめられています。パリから避難したマダムは、祖母の荷物の整理をしている途中だったのかもしれません。
あるいは、ただただ慌てていてこれらの家具をそのまま放置するしかなかったのかもしれません。椅子は適当にまとめられていて、上には絵画や本が積まれています。アパートがきれいに維持されていた時の姿を想像するのは難しいかもしれません。
過去の名残
小さな小物がたくさん置かれている化粧台からは、家や持ち主のことがさらによくわかります。ヘアブラシは、平らな部分を上にして几帳面に並べられています。
鏡の下に置かれているガラスの瓶は埃だらけ。端には4つのろうそくが飾られてあり、ろうそくは燭台の底に触れそうなほど燃やされています。左側には、貴金属用であると思われる箱。中には貴重なものが入っている可能性があります。
女王にふさわしい部屋
さて、先ほどの部屋が豪勢だと思った方。寝室の壮麗さには度肝を抜かれるはずです。四柱式ベッドには、インテリアデザインに輝きをプラスする厚い生地の天蓋がかかっています。
これでもかと言わんばかりに、天蓋は大きな窓にかかるカーテンとデザインをマッチさせています。ドレッサーの上の壁のデザインは芸術そのものです。窓際の椅子とベッドの横の椅子は、古い寝室によくみられる配置です。
コレってダチョウ?
確かにダチョウですが、心配ご無用。生きているわけではありません。このアイテムはどうやらダチョウのレプリカであるようです。ただ、マダムまたは彼女の祖母であるマルトがなぜこのような変わった品を手に入れたのかは謎に包まれています。
このダチョウは、一種の象徴として重宝されていた可能性があります。ダチョウには、富や子宝の象徴という意味があると考えている人もいます。確かに、豪勢なアパートにはふさわしいと言えるかもしれません。
初期のディスニーキャラクター
ダチョウの足元に置かれているのは、ヴィンテージのミッキーマウスとポーキー・ピッグ。ミッキー・マウスのキャラクターが生まれたのは1928年です。マルトの死の10年前ほどであり、マダムが10代の頃であったと思われます。
ポーキー・ピッグが誕生した1935年は、マダムがアパートを引き継ぐ数年前ということになります。マルトの子供時代からは程遠いため、これらのアイテムをアパートに持ってきたのはマダムである可能性が高いでしょう。
マルト・ド・フロリアン
アパートで発見された最も素晴らしいアイテムの1つは、マルト・ド・フロリアンの絵画と言えるでしょう。絵画の中のマルトは、ボリュームのあるピンクのドレスを身にまとっています。1869年生まれであることを考えると、この絵画に描き出されているのは20世紀に入った頃の彼女でしょう。
この絵画からは、マルトの自由気ままな性格が見て取れます。当時の女性のイメージは控えめな印象を与えるものが多いですが、マルトは笑顔を浮かべて少し肩を後ろに引いています。さて、この絵画は一体誰による作品なのでしょうか?
ラブレター
競売人であるオリビエとチームは、引き出しと積み重ねられた紙の山の中から謎に包まれた絵画のヒントを探しました。見つかったのは、引き出しの中にしまわれていたリボンでまとめられた手紙です。
手紙は、彼女のソーシャライトの輪に属していたとされている複数の有名人ボーイフレンドたちからの手紙でした。実際、マルトの子供2人の出征証明書には父親の名前が記載されていません。彼女の恋人の1人ではないかと長らく推測されていたのは、イタリア人画家のジョヴァンニ・ボルディーニです。
秘密の恋
写真の自画像にあるジョヴァンニ・ボルディーニが、すぐに絵画の制作者であると断定されたわけではありません。この絵画には署名がされておらず、ジョヴァンニがマルトの絵画を描いたという記録も残っていません。しかし、ジョヴァンニの奥さんが回想録の中でこの作品について言及しています。
彼女の回想録によれば、絵画が作成されたのは1898年。マルトが34歳の時です。発見された手紙によって、この絵画がジョヴァンニの作品であるということが裏付けられました。オークションでは、210万ユーロ(約2億8,000万円)の高値で売却されています。
こちらもフランス人女優
フランス人女優のセシル・ソレル。この写真では、マルトより9歳年下のセシルがパリの自身のアパートでリップを塗りながら笑顔を向けている姿を映しています(1930年撮影)。
写真を見る限り、セシルのアパートはマルトのものほど高級ではないようです。彼女のアパートにも化粧台が設置されていますが、マルトの化粧台と比べると精巧な彫りが施されていません。しかし、暖炉だけは同じような作りです。ちなみに、セシルのアパートもマルトのアパートと同じ建物の中にあります。
100年前のスタイル
写真の寝室は1935年に撮影されたもので、パリにある高級アパートの一部を写しています。部屋のスタイルは20世紀以前のもので、ツインベッドの寝室は廻り縁と小さなシャンデリアが特徴的です。
ミニマリストデザインが主流の今はあまり見かけませんが、壁には額にはめ込まれた写真が飾られています。椅子と一緒に置いてある小さく丸いテーブルも、現在ではあまり見かけないでしょう。
こちらの有名作家は誰でしょう?
愛犬のプードルを抱いて若い軍曹の隣に座る、有名作家のガートルード・スタイン。カリフォルニア出身の彼女ですが、29歳だった1903年にパリに引っ越しています。
1946年に亡くなるまでパリで暮らしたガートルード。写真は彼女のアパートで1935年に撮影されたものです。彼女のアパートの装飾は、マルトのやりすぎな豪華さに比べるとより現代的と言えるでしょう。
ガートルードは芸術好き
有名な画家に絵画を描いてもらったのは、マルト・ド・フロリアンだけではありません。こちらの写真は、有名な画家のパブロ・ピカソに描いてもらった肖像画の前でポーズするガートルード・スタイン。ピカソがガートルードの肖像画を制作したのは1906年です。
ガートルードの実験的な芸術への愛は、家の装飾にも見られます。壁には芸術作品で覆われており、暖炉のマントルにはアートの数々が並べられています。有名な芸術評論家でもあり、2度の世界大戦の間も芸術作品と共にパリのアパートに留まり続けました。
パリで悲しみに暮れる公爵
暖炉のマントル横でのポージングは、1930年代当時の写真撮影の流行りだったようです。写真に写っているのは、ウラジーミル・キリロヴィチ公。1938年にパリのアパートにて暖炉に寄りかかってポーズしています。
亡くなったばかりの父親の写真を見ているようです。父親の写真は、高級な芸術作品の横に飾られています。長いドイリーが暖炉を覆っているのは、1930年代によくみられるスタイルです。
豪勢の中の豪勢
カルロス・デ・ベイステギのパリのペントハウスでポーズをとる2人のモデル。カルロスは、1930年代初期、自分のために有名な建築家にペントハウスをデザインさせた奇抜なソーシャライトです。かなりの金持ちで、かの有名なサルバドール・ダリがルーフテラスのデザインを手がけました。
装飾は、家の豪勢なスタイルに合わせて選び抜かれていることがわかります。豪華な枠にはめられた鏡の前には、大きなガラス製のキャンドル取り付け台。モデルでないと様にならないような豪華なつくりの家です。
有名なココ・シャネルのアパート
最も影響力があるデザイナーの1人であるココ・シャネルは、第2次世界大戦のあたりに人気を高めた革命的なファッショニスタです。写真に写っているのは、彼女のパリの自宅のリビング。シャネルは、戦時中もこの場所から離れることはありませんでした。
壁にはたくさんの本が並べられています。シャンデリアと芸術品は時代を物語る豪勢なデザインです。木製の家具と大きな鏡のフレームには、細かいデザインが彫り込まれています。
フランス人デザイナーの自宅
皆さんがお察しの通り、1930年代のパリには様々な媒体の芸術家が暮らしていました。革新的なデザインでインテリアスタイルの名称に名前が採用されているマドレーヌ・カスタンも、パリに暮らしていた芸術家の1人です。
1894年生まれのカスタンは、第2次世界大戦中のフランスでアンティークディーラー及びインテリアデザイナーとして活躍していました。パリから1時間ほど離れたレーヴにある彼女の自宅を写したこちらの写真。1930年代の派手なスタイルを超越した風変わりなスタイルです。
カスタンからのインスピレーション
こちらの写真も、第2次世界大戦期のマドレーヌ・カスタンの一風変わったデザインを映し出しています。長い金のカーテンは、マルトのパリのアパートにあったものに類似していると言えるでしょう。ただ、壁紙は一般的な花柄ではなく縞模様になっています。
暖炉の上に鏡を置く代わりに、カスタンは鏡の様な形のアートを飾っています。家具の一部には今まで見てきたような伝統的なスタイルが見られますが、それ以外はモダンでシンプルなものが採用されています。
1930年代再び
パリにあるこちらの家は、現在市場で450万ドル(約5億円)で売り出し中。建物が建てられた1930年当時の値段をはるかに超えた高値で販売されています。広さは370平方メートルで、アパートがあるのは2階です。
古い家には、現在のデザイナーであれば無視してしまうような機能がたくさん見られます。例えば、応接間や寄木細工の床などです。このアパートには広範囲に及ぶリノベーションが施されていますが、30年代の雰囲気をそのまま残しています。
廃らないデザイン
パリに所在するこの家のリビングは、これまでご紹介してきた1930年代の家の特徴を兼ねそろえています。複雑な花柄の壁紙が貼られた壁のデザインの一部として、廻り縁を採用。家具も全体的に30年代らしいチョイスです。
1930代のアパートに見られるように、リビング以外の部屋に木製の椅子が置かれています。現在ではなかなか見られないスタイルです。さらに、最後の仕上げとばかりに美しいビンテージの家の天井にはシャンデリアが飾られています。
低木の中に潜む家
2019年7月、ヴァージニア州の空き家を撮影した写真家のブライアン・サンシベロ。家の中には、ベッド、家具、装飾、家族写真など、すべてそのまま残されています。まさに1950年代の様子がわかるタイムカプセルそのものです。
第2次世界大戦後に繁栄したアメリカの経済。アメリカ国民たちは、新しい技術やエンタメを存分に楽しみました。ロックンロール、テレビ番組、おしゃれな車が大流行。この家の元の持ち主も、これらの贅沢を謳歌したようです。
数十年の間放置
バージニア州にあるこちらの空き家は、数十年間放置されたままになっています。住人が暮らしていたころ、バージニア州はアフリカ系アメリカ人公民権運動の真っただ中。1950年代は、人種差別や人権などに関して様々な議論がなされてきました。
同時期、アメリカは経済急成長の真っただ中。台所用品、ホームデコ、便利用品などが、一般市民でも手に入れられるようになりました。中流または中上流階級のものと思われるこの空き家では、同時代の電化製品をたくさん目にすることができます。
失われたリビング
こちらの部屋はラウンジのようです。白いベンチは、何らかの理由で中に移動させられた屋外用の家具のように見えます。右側を見て見ると、コンピューターの様なものが置かれたデスクが設置してあります。おそらく実際はトランクである可能性が高いでしょう。
50年代と60年代に出回っていた唯一の一般用コンピューターは、大きさがもっとずっと大きいためです。壁や床には、1950年代と1960年代に人気だったデザインを見ることができます。
デスクのクロースアップ
デスクの上には、古い壁時計、手紙入れ、放置された壁の装飾が残されています。新品状態であれば、このタイプのデスクは現在数千ドル(数十万)で売却することが可能でしょう。残念ならがら、写真のデスクの状態はあまり芳しくはなさそうです。
デスクの左側の大きな引き出しを上部に向かって開くと、棚とデスクスペースが露になります。こういったデザインは50年代に一般的だったもので、空間を節約するために好まれました。大きなデスクにもたれかかっているのは、古い掃除機です。
空き家には気味の悪い人形が付き物
空き家に残された頭部を切断された人形はかなり恐怖ですよね。ただ、この人形は数十年前まで家で生活をしていた家族の生活の一端を知る手掛かりになると言えるでしょう。50年代~60年代は、子供のおもちゃも盛んに生産されました。
写真の頭部は、1950年代から1968年にアメリカン・キャラクター・ドール・カンパニーが販売していたタイニー・ティアーズ人形の物です。タイニー・ティアーズ人形は、小さな唇、大きな頬、鮮やかな色の目が特徴です。
テレビは1台と言わず2台
ディスプレーキャビネットの前には、大小2台のテレビが置かれています。テレビの販売台数は、1950年代に急激に伸びました。1953年、テレビの値段は500ドル(約5万円)から200ドル(約2万円)に下落し、アメリカ家庭の77%がこの時期に初のテレビを購入したとされています。
2台のテレビを見て驚かれました?実はこの家にはあともう1台テレビがあります。1950年代には、テレビがラジオを抜いて主要な娯楽となりました。大きな家であることを考えると、テレビが数台必要だったことも頷けます。
数10年間使用されていない台所
片づけさえすれば、立派な台所であることは間違いなさそうです。ミント色は50年代の流行で、テレビがテーブルの傍にあることも一般的でした。壁に埋め込まれたオーブンは現代目線で見ると古めかしいかもしれませんが、当時の人気のスタイルです。
カウンターの上の組み込み戸棚が開発されたのは20年代ですが、実際に家に設置されるようになったのは戦後です。50年代は、壁にピッタリとはまる台所用品を備えたシームレスキッチン時代の幕開けでした。
誰も見ることがない写真アルバム
こちらの角のテーブルには、家族写真が残されています。兄弟や友達の写真が、鮮やかな写真アルバムに所せましと並んでいます。その多くは、おそらく何十年もそのまま放置されているのでしょう。
カラー写真は以前から存在していましたが、一般的になったのは50年代から60年代辺りです。アメリカ初の新聞のフルカラーページが刷られたのは1958年に入ってからでした。写真に写っているカラー写真は、60年代から70年代に撮影されたものだと思われます。
思い出が詰まった小さなテーブル
こちらもたくさんの写真が置かれたテーブル。小さな照明が置かれたこのコーナーテーブルは、家族写真用であるようです。家族アルバムをまるごと置き去りにしていくというのは、一体どんな事情があったのでしょうか?
第2次世界大戦後、写真はより一般的になってきました。雑誌や新聞には必ず写真が掲載されるようになります。家族写真撮影は、贅沢というよりは恒例の行事と化していきました。ただ、だからと言って写真の感傷的な価値が下がるわけでもありませんよね?
残されたレゴ
鏡が設置されたマントルと背の高い窓のこのスペースは、子供の遊び部屋だったようです。床を見て見ると、鮮やかな色のプラスチックのブロックが散らばっています。これらはすべて旧式のレゴ。1949年にオートマチック・バインディング・ブリックとしてデビューして、1953年に「レゴ」に改名されました。
植物が最近水やりされたように見えるのは、本物ではなく人工植物であるためです。50年代、アメリカでは盛んに人工植物が販売されていました。ただしラテックス製ではなく固いプラスチック製が主流です。
どこの鍵?
サイドテーブルに目を向けてみると、かつて暮らしていた住人のことを知るヒントが隠されています。創世記のページが開かれた聖書の上に置かれているのは鍵。カバーの内側には、持ち主が鉛筆で何かをかきこんだ痕跡があります。さらに、右側には蹄鉄のペンダントが置かれています。
花瓶が写ったポロライド写真も残されています。はがすタイプのカラーのポロライドは60年代に人気を博しました。現代主流となっているはがすタイプではない通常の写真が一般的になったのは、70年代に入ってからです。
ビンテージクローゼットの中身
女性用の寝室には、1950年代の洋服がそのままの状態で残っています。1947年、フランス人デザイナーのクリスチャン・ディオールのお陰で、フルスカート、スイングコート、タイトなウェストラインなどが人気を得ていきました。この時代は、鮮やかな色合いやドット柄などのちょっとしたデザインも女性の間で流行します。
1950年代以前は、写真に写っているよりも小さなクローゼットが一般的でした。大きなクローゼットは、アメリカ人が郊外へ住まいを移していった理由であると考えている人もいます。ちなみに、ウォークインクローゼットが登場したのは1980年代です。
床中に散らばる服
ヴィンテージの洋服好きなら手に取ってしまいたくなるような品々が、床に無造作に散らばっています。長年放置されていたため一部は劣化しているようです。クローゼットのドアにはきれいに洗濯されたコートがかかっています。ベッドの上に置かれているような円形の箱は、当時では一般的です。
カーテンと壁紙は、放置され剥がれかかっています。他の部屋と比べると、この寝室は少し単調かもしれません。ナイトスタンドには、住人またはその家族の写真が飾られています。
元々はあまり一般的ではなかった家具
寝室の角には、ピンクのクッションで飾られたふかふかの赤い椅子が備えられています。1950年以前、このような豪華な椅子はアメリカでは一般的ではありませんでした。戦後の経済成長を受け、デザイナーたちは安価な藁と馬毛からポリウレタンフォームに切り替え、より快適なソファを実現しています。
50年代には、先が細い足やクリーンカットの端のソファや椅子が一般的になります。だらに、部屋の壁紙にマッチした椅子やソファが好まれました。
もはや見かけない電話
電話にコードがあった時代、覚えてます?1950年代初期には3分の2のアメリカ人が電話を所有していたとされていますが、その数字は年々増加していきました。そんな50年代のアメリカ人にとって画期的だったのが、壁掛け電話です。
現代のスタンダードからするとかなり大きめですが、当時はおしゃれだと考えられていました。ほとんどの電話が黒、白、茶色であったため、写真に写っているものは劣化で変色していると思われます。念のためお伝えしておくと、おそらく電話をかけることはできません。
おもちゃ天国
こちらも遊び部屋からの別の1枚。マントルの鏡には、部屋の残りの部分が映し出されています。おもちゃの山には、角の偽植物の影が落ちています。壁が劣化していなければ、愛に溢れる家庭の子供部屋といった印象です。
50年代スタイルの厚いカーテンが壁紙にマッチしています。ピンチプリーツのドレープは、50年代のアメリカ家庭の定番。マントルの大鏡では不十分とばかりに、ツリーには小さな鏡が飾られています。
マントルピースの装飾
マントルの上には、子犬の写真と人工の花が飾られた花瓶が置かれています。このようなプリント写真も1950年代の家庭では一般的です。セラミックの装飾はすべて子供を意識したものなのでしょうか?親子の白鳥と2匹のネズミが飾られています。
人工花は1980年代まで人気を維持していました。当時、フラワーアレンジメントの多くがコンスタンス・スプライに影響を受けています。花瓶には、壁紙とはまた違う花柄があしらわれています。
読書の時間
こちらのコーナーテーブルは、子供の遊び部屋に置かれているものです。ご覧いただけるように、『ピノキオ』などのディズニーの本が置き去りにされています。椅子の上には、1968年ごろに放送を開始した『バーバー』の本。
剥がれ落ちた壁紙と共に床に散らばっているのはポラロイド写真です。他にも、カードゲーム、中編小説、様々な紙類が混じっているようです。椅子の上の木製のトナカイはクリスマスの装飾でしょうか?
アンティークのティーセット
こちらは使われなくなった花柄のクリーマーとソーサー。50年代には花柄のイラストが描かれたティーセットが人気でした。数十年前の時代とは異なり、家庭用品は快適さと遊び心を追及しています。
セラミック製の小物は、戦後に大量生産が進みます。お金の余裕が出てきたアメリカ人たちは、写真に写っているような小さな銀の椅子、ボウル、クリップ、セラミックの置物などの装飾品のコレクションに投資するようになりました。
素敵な壁紙
こちらは、カーテン、ラグ、壁紙すべてがライトピンクの寝室。50年代に人気だったライトピンクのデザインは、のちに「シャビーシック」と呼ばれるようになります。柄物の壁紙は元々人気でしたが、大流行したと言えばこの時代でしょう。
さらにこの時代には、「テーマ壁紙」が増加しました。所有者個人の趣味を反映した壁紙です。庭道具からスポーツ用品、キッチン用品など。写真の壁紙は、どちらかと言えば60年代よりのデザインです。
ピンク、ピンク、ピンク!
パステルカラーも50年代の人気要素です。こちらの女の子の部屋を見れば一目瞭然。壁紙が色の濃い木製の家具とよいコントラストになっています。ベッドシーツは、この家のテーマでもある花柄です。
50年代の家には、写真のホットピンクのトランクの様な鮮やかなプラスチック製品が目立ちます。トランクはおそらく数十年の間手つかずのままなのでしょう。写真には他にも、アンティークのバッグが写っています。
長らく置き去りにされているであろうハンドバッグとショーツ
古いバッグ、シャツ、シーツで埋め尽くされた寝室の床。色も柄もまちまちです。50年代と60年代には、1910年代以降あまり見られなかった様々な生地や模様が採用されています。
1940年代、戦争により生地の数や品質が限定されていたため、ファッション業界は影響を受けました。第2次世界大戦後、アメリカのファッション業界は経済成長を遂げます。鮮やかでファンキーな模様(写真下)が、10代の間で流行り始めました。
さよなら、高級時計
壁から落ちてしまったアンティークの時計。ガラス部分が粉々に砕けていますが、真鍮デザインの部分はそのままの姿を保っています。美しいデザインですが、一般的な50年代の壁時計とは毛色が異なるようです。
当時の人気デザインは、アメリカ人デザイナーのジョージ・ネルソンの作品。ネルソンが経営するジョージ・ネルソン・アソシエーツは、50年代~60年代にかけて様々な壁掛け時計やテーブル時計を製造してきました。サンフラワークロックやボールクロックが特に人気です。
廊下を進むと…
廊下のこの角度からは、女の子の部屋が見えます。ピンクの壁は寝室の壁が目にマッチしていますが、廊下には壁紙は貼られていません。右に目を向けると、全身鏡が設置されています。
50年代の一般的なアメリカ人家庭と比べると、この空き家はかなり大きめです。郊外の多くの家では家具が詰め込まれている状態がほとんどでした。この家の元住人は、おそらく上中流階級の家族だったのでしょう。
現在らしい装飾もちらほら
こちらは、TOSHIBAの電子レンジの上に置かれたセラミック製の白鳥の置物。ちなみに、レンジを見てみると家の建設当時よりだいぶ後に購入されたことがわかります。1950年から1969年の間、TOSHIBAは別のロゴを採用していたんです。
後ろに目を向けると、窓の横には不用品が並べられています。花瓶、木製の箱、紙、ブラシなど。元住人はすべてを置き去りにして出て行ってしまったのでしょうか?
崩れ落ちる棚
ガラス張りの廊下は白い木枠に覆われています。窓からは、バージニア州の田舎町の植物を楽しむことができます。窓枠の部分には、廊下に物をディスプレーしておけるようにと白い棚が設置されています。
住人が暮らしていたころは、ここに植物などを飾っていたのでしょうか?現在残されているのは装飾用の植木鉢のみです。老朽化したガラス張りの廊下には他にも、リースやが庭用のセラミック製の置物が置かれています。
時間の試練に耐えたコレクション
こちらはセラミック製の装飾のコレクション。多くは落下して破損してしまっています。こういったコレクションも1950年代には一般的で、中流階級が増加したことでアメリカにも消費主義が広まっていきました。
全体的な賃金が上がっただけでなく、当時のアメリカは世界の半分の製品を生産していたと言われています。装飾品は安価で、戦後のアメリカ人はより多くの物に手が届くようになりました。
自然の侵略
こちらは、別の角度から撮影したガラス張りの廊下の写真です。こちら側には、住人やゲストが景色を楽しめるようにとソファが設置されています。おそらくツルに関しては、元々あったものではないでしょう。
長らく放置された間に、ツルが伸びきって廊下まで侵入してきてしまったようです。周りの自然に家全体が侵略される日も遠くはないかもしれません。写真家のブライアン・サンシベロが家を撮影したのも、「完全に失われる前に記録として残しておこう」と考えたからだそうです。
ゆっくりと自然に飲まれて
50年代におけるアメリカの大部分の家に比べると、かなり大きなこちらの空き家。当時の家の平均的な広さは91平方メートルです(現在の平均は232平方メートル)。ただ、周りが木で囲まれているためあまり大きくは見えないかもしれません。
外からはご紹介したような50年代の過去の遺物を見ることはできません。ここから見えるのはツルに覆われたガラス張りの廊下のみです。残念ながら家自体は長くは持たないでしょう。ただ、写真という形でこれらの50年代の名残りは今後も受け継がれていくはずです。